榎木津×美由紀
『言えないよ』
「もー、なんなの……」
今日は仏滅だっただろうか、と思わずカレンダーを見た。
朝から災難が続いている。
寝坊して朝食を逃し、学校まで全力疾走。
髪にはものすごい寝癖がつき、制服のスカートはかけてあったハンガーから落ちていたために皺がついている。
遅刻はしなかったものの、授業を受けようとしたら教科書とノートが時間割と合わない。曜日を間違えてしまったことに気づき、慌てて他組の子に教科書を借りに行くことになった。
肘を椅子の角にぶつけて激痛が走り、移動すれば階段で滑って弁慶の泣き所を打つ。涙目で脚を擦りながら、痛みを堪えた。すでに膨らんでいるから、風呂に入る頃には確実に青痣だ。
あまりのどたばたぶりに、級友には「大丈夫ですの？」「今日はどうかなさいましたの？」と心配される有様。
――厄日、なのかな。
こんなときには古書肆のところへ行って厄払いをお願いしたいところだ。
その後もいくつかの災難に出くわしながら、疲れた身体を引きずって寮に帰ると、探偵社から今ちょうど電話があったと寮母から声をかけられた。
薔薇十字事務所から寮に連絡があるとき、その用件は「探偵が来い」とうるさいか「事件があるから来るな」のどちらかだ。
嫌な予感は当たるもの。
「美由紀ちゃん？」
声の主は探偵助手で、連絡があるまで事務所には来ないようにと云われてしまう。
――やっぱり。
今日はとことんついてない。
「ちょっと変な団体と揉めていてね。すぐに榎木津さんが解決させるからそれまで待っていて」
わざわざ電話をかけてくるのだから、事務所に押しかけてくるような連中なのだろう。気持ちはズンと沈んだが、背筋を伸ばし、なるべく明るい声でわかりましたと答えた。
「益田さん」
「なに？」
「がんばってくださいね」
うん、と元気な返答があり、
「美由紀ちゃんもがんばれ！」
益田さんのエールに思わず和んで、はい、と笑った。
「……」
ちょっとした沈黙が流れて、
「探偵さんはいますか――？」
と口にしそうになったが堪えた。しばらく会えないのだとしたらせめて声くらいは聞きたい――と思ったのだけれど、今日一日の運のなさを思えば探偵がいないと分かってさらに気分が沈む可能性は高い。
益田さんから特に云ってくる言葉もなかったので、私は「それじゃあまた」と云って受話器を置いた。
「……ふう」
息を吐く。溜め息をつくと幸せが逃げると云っていたのは探偵だ。それでもやっぱり溜め息が漏れてしまう。
いったい、いつまで会えないのだろう。
今日みたいに嫌なことがあっても、探偵社に行って探偵と話していると気分が晴れるだけに、このタイミングは最悪だ。
――ジリリリリリン！
「うわッ！？」
真横でいきなり電話が鳴って私は飛び上がった。慌てて寮母を探すも姿が見えない。いつもなら、事務所から電話があったらまるで聞き耳を立てるかのごとく必ずいるのに――。
手洗いに行ったのかもしれない、と私が受話器をとると、寮の名前を告げる前に神様の第一声が耳に響いた。
「女学生君！」
「は、はい！？」
思わず耳から受話器を離してしまう。び――びっくりした。
「探偵さん……！？」
「薄情者め！」
「え……！？」
何――？
「なんで僕には云わないのだ」
「は！？」
――云う！？
なんのことだ。
混乱する私がうろたえていると、探偵は「はじゃない！」と電話の奥で叫んだ。
「僕が代わったとたんに、それじゃあまたガチャンってなんなのだ！」
それじゃあまたガチャン……って。
――あの沈黙か！
ちょうど益田さんから探偵に受話器を渡していたところだったのだろう。意気揚々と電話へ出ようとしたのに突然切られた探偵の顔を想像したら、なんだか可笑しくなってしまった。
「あはは」
くすくすと笑いながらすみませんと謝ると、笑うなと怒られた。
「だって、探偵さんに代わるとは思わなくて」
「だから薄情者と云っているのだ。――僕に云うことはないのか」
怒ってはいるが、拗ねたような物言い。
きっと、事務所ではなくて寝室の電話からかけているにちがいない。
私は笑った。
「がんばってください」
「うん。――それから？」
「ええと、怪我をしないように」
「うん。そのほかには？」
「え？ ……え、えっと、早く解決してください」
「うん。で？」
「で？」
で、って云われても。
「他にはないのか」
「ご飯ちゃんと食べてくださいね？」
「それじゃあない！ 失格ダッ！」
「ええ！？」
失格ってなんだそれ。
他に何。
益田さんをあまりいじめないように……とかじゃないよね。警察の皆さんにご迷惑をおかけしないように、でもない。
「拝み屋さんによろしく……？」
「……」
「……あの」
「…………」
「その……」
「………………」
「……探偵さん？」
沈黙が怖い。
きっと、わかっているのだ本当は。
探偵が何の言葉を待っているのかを。
私は――。
「今日……」
静かに囁く。
「悪いことばかり重なって」
「……それで？」
無視されると思ったのに、優しく先を促されるから思わず愚痴った。朝から失敗続きであることを。
「…………探偵さんと会えなくなるし」
うん、と笑うような声が耳に響いた。
「それで？」
「それで……」
それで、何――。
「……最後のが一番堪えました」
返ってきたのは、やっぱり沈黙だった。
「探偵さんに――」
会いたい。
「あら！ 呉さんまだ電話をしているの！？」
「うひゃ！」
ガラ、と突然扉が開いて現れた寮母に私の心臓は飛び跳ね、変な声を上げてしまった。
「あ、あの！」
声が上ずってしまう。受話器の通話口を押さえて、別に悪いことをしているわけじゃないのに、わたわたした。
「いったい何のお話をしているの！ 本来、ご家族以外の方には――」
「すぐに切ります――！」
女学生君、と小さく聞こえてくる探偵の声に、再び受話器を耳に当ててハイと答えた。
「まあいいだろう」
「――え？」
じゃあね、と探偵はあっさり口にすると電話を切った。
思わず呆然と受話器を見つめた。呉さん、と寮母に睨まれて慌てて受話器を戻す。
「ありがとうございました。失礼します――！」
礼をして管理人室を出ると、扉にもたれて息を吐いた。
「びっくりした……」
そして、思わず笑ってしまう。
今もまだ探偵の声が耳に残っている。薄情者だとか失格だとか、真剣に主張して。
本当に可笑しな人。
「あら美由紀さん、まだ着替えていないの？ そろそろ夕飯の時間よ」
階段を下りてきた隣室の子に声をかけられた。
彼女は私を見て目を細めた。
「なあに？ 楽しそうね」
ふふ、と彼女は笑った。
「今日は一日、良いことでもあって？」
了
【甘い恋の欲求で５のお題／01 会いたいなんて言えないよ】
2007.01.25
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