榎木津×美由紀
『大嫌い』
片思いでもいいと、ずっと思っていた。
実際に、そう口にしたりもした。
でも――。
なんで私は今、こんなに後悔しているのだろう。
探偵に付き合う人が出来たら、事務所に行くのは止めようと最初から決めていた。
それなのに、和寅さんが「やっと先生が結婚する気になってくれたんですよう」と嬉しそうに話すのを聞いた時、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
そうですか、とか、よかったですね、というようなことを返した気はするがはっきりとは覚えていない。呟きは言葉になっていなかったのかもしれない。
探偵がいなかったため、帰ります、と帰宅を告げて事務所を出たときも頭の中は混乱したままだった。
「いきなり結婚……なんて」
あれだけの容姿だ。学歴もある。女性にもてないわけがないのに、彼が独り身でいることに安心していた。
女性の話も出てこないから、付き合っている人もいないのだと思っていた。
それでも、いつだって覚悟はしていたのだ。
「――」
嘘。
全然、覚悟なんてしていなかった。
心の中の空洞を、すとーんと何かが落ちていく気がした。
なんで私はまだ十五歳なのだろう。
彼と恋愛どころか、結婚できる年齢ですらない。
階段を下りるときに足元がふらついて、さっきの感覚が頭から血が下がったためだと分かった。
――もし、素直に思いを告げていたら何かが変わっていたのだろうか。
そんな勇気もないくせに。
――私の方が先に告白していたら探偵はそれを受け入れてくれた？
私が好きだと、可愛いと云ってくれる彼の言葉を素直に受け止めていたら、私は今も探偵のそばにいることが出来たのだろうか。
いや、その言葉だって本気ではなかったのだから、信じるも信じないもない。
最初から私は探偵が好きな「女子学生」のひとりに過ぎなかったのだから、与えられた笑みも言葉も、可愛い玩具に向けられた言葉と変わらない。
なにもかも今更――だ。
心臓が絞られるように締め付けられて、後悔だけが押し寄せてくる。
こんなにも探偵を好きになっていたのだと思い知らされた。涙が溢れそうになって、私は無理やりそれを堪えた。
失恋など、誰もが経験することだ。
しっかりしろ。
私は自分に云い聞かせると、足に力を入れて立ち上がった。
探偵はお見合いをしたのだろうか。
それとも以前から付き合っている人がいたのだろうか。
どういう人なんだろう。
どんな人なんだろう。
彼のことだから高笑いと共に登場して、
「女学生君！ 僕はこの人と結婚するのだ！」
そんな言葉と共に隣に並んだ女性を紹介するのだろう。
ニコニコと嬉しそうな探偵に、きっと私は「よかったですね」と笑うのだ。
――素敵な人ですね、と。
私は土曜日に事務所へ行くのを止めた。
事務所からも連絡はなく、ただ、淡々と日は過ぎていく。
覚える焦燥感。たとえ探偵に会えなくても、事務所に行くことが楽しみで仕方がなかったのだと気づかされた。
毎日の授業も生活も、何もかもが平凡で面白みのないものになってしまった。
「別に……」
驚くことなど何もない。聖ベルナール女学院で事件が起こる前――探偵と出会う前と同じになっただけだ。
これから先、何も変わることのない日常が続いていくだけ。
本当に――。
私は馬鹿だと思う。
何を期待していたのだろう。事務所に来るように探偵や益田さんが云ってくれたのも、事件で傷ついた私に気を配ってくれていたのだと分かっていた。
それなのに、二十も年下の小娘を、探偵が本気で相手にしてくれるとでも？
ふだんの言動が子供みたいでも、彼は立派な大人なのに――。
「馬鹿だ馬鹿だ。大馬鹿だ」
閉じた口を開けば、漏れるのは溜め息ばかりで嫌になってくる。
土曜日も日曜日も、こんなに時間が長いなんて思わなかった。
ご飯も美味しくない。
友達の声も耳に入らない。
見るものすべてが心に響かない。
時計の針はこんなにゆっくりと動くものだっただろうか。
放課後や土曜日は学校に残って宿題を片付けたり図書室に通うことが多くなった。
門限ぎりぎりまで学校にいて、暗くなってから寮へ帰る。
いつだって胸の奥が締め付けられるように苦しくて、それは探偵のそばにいるときも時々覚えたものだったけれど。
「女学生君」
うつむきながら歩いていると、学校の門を出たとたんに背後から声をかけられた。
それだけで心臓が跳ねる。
誰であるのかを確認するまでもない。
振り返ると門柱に長身の男が寄りかかっていた。
「――探偵、さん」
口を開けば、一気に喉が渇いた。
探偵に会わないと決めて三週間が経っていた。結婚の報告を聞いたときにも探偵とは会えなかったから、四週間も会っていなかったことになる。
脚が震えた。
呼吸の仕方を忘れてしまう。
身を起こして近づいてくる彼の姿が、最後に見たときよりも遠く感じた。
――大丈夫。
ドクドクと、耳鳴りのように聞こえてくるのは何の音なのだろう。
「どう――したんですか？」
「どうした？」
探偵が首をかしげた。
いつも笑みの絶えない人が、精悍な顔になって近づいてくる。
「――どうした」
「え？」
なにが。
聞いたはずの言葉が、反対に返ってくる。
心配そうな彼の表情に、私は無意識のうちに胸元を握っていることに気づいて慌てて手を離した。
――しっかりしろ。
「私は、別に、何も」
「事務所に来なくなった」
「あ――」
はい、と返し、すみません、と頭を下げた。
ああ、馬鹿だ。今まで当たり前のように通っていたのに、黙って行かなくなったら心配するに決まっているじゃないか。きちんと今までのことに礼をして、これからは行けないときちんと伝えるべきだった。
「ちゃんとご挨拶できなくて」
「何が」
「学校の勉強とか、いろいろと忙しいので、これからはもう事務所には伺いません」
「いつまで？」
いつものように、私が次に行く日を聞いてくる。
私はゆっくりと息を吸って、彼の胸元を見つめた。
「もう、行きません」
「どうして？」
――どうして？
落ち着いた声で淡々と聞いてくる。
「僕が何かしたのか」
「なにも」
見上げると、彼は口をへの字にしていた。不機嫌そうに、――怒っている？
「じゃあ、僕が嫌いになったのだな」
「違います！」
「勉強が忙しいのも行事があるのも嘘だ」
「だって――、探偵さん、結婚するじゃないですか。結婚するのに――、伺えません」
探偵が驚いたように目を見張った。
「――結婚が、いやなのか？」
「――」
いやだと云ったら止めてくれるの？
そんなわけがないのに云ってどうなる。
云って――。
どうなるというのだ。
「……」
いやなわけじゃない、と云え。
よかったですね、と笑え。
幸せになってくださいと。
「いや……」
唇が震えた。
云えるはずがない。
「いやです……」
「じゃあしない」
「――」
「しないよ」
「――！？」
は？
私は探偵を見上げた。
「結婚しない」
あっさりと探偵は告げる。
「は！？」
信じられない！ なに、この人――。
泣いている自分が馬鹿みたいだ。わけの分からない怒りが沸騰するように溢れて、私は浮かんでいた涙を乱暴に拭った。
「なに云っているんですか！ してください！」
私が叫ぶと、探偵は眉を寄せた。
「したいのか？ したくないのか、どっちなのだ」
「私の意見で左右されるなんて、相手の方に失礼じゃないですか！」
「僕はしたい。君がしたくないのだろう」
「だから、結婚するならしてください！」
「じゃあ、する」
「――！ お幸せに！」
私は吐き捨てるように叫ぶと、踵を返して学校の中に駆け出した。
学校の中までは追いかけてこないだろう――、そんな遠慮が探偵に通じるはずもなく、すぐに腕をつかまれてしまった。
「美由紀」
どうした、と。
名前で呼ばれてカッとなった。
「何で追いかけてくるんです！」
「君じゃなければ追いかけないよ。勝手な勘違いで怒られるのは不本意だ」
「探偵さんなんて嫌いです」
私は探偵を睨んだ。
「大嫌い！」
「僕は君が好きだ」
「探偵さんが云う好きと、私の好きは違うんです！」
「何が違う」
腕を振り解こうとするが、探偵の指が食い込むように手首を掴んで離さない。
「誰に何を云われた」
「何も云われていません！」
「だったらなぜ怒る」
「探偵さんが嫌いだからです！」
「嘘だ」
「嘘じゃないです！」
「嘘だ」
「探偵さんがそんな人だとは思いませんでした！」
「そんな人ってどんな人だ。僕は僕だぞ」
「結婚を決めた人がいるのに、するのしないのって勝手に決めるなんて！ 女の人に失礼じゃないですか！」
「僕がしたいのは君だ」
「だから――」
だから。
したいならすればいいじゃないか。
「……」
――え？
問うように探偵を見上げると、探偵が息を吐いた。手首を握っていた指の力が緩くなる。
「僕が結婚したいのは、君だ」
「――」
「君だけだ」
「――――」
え？
「何を勘違いしているのか知らないが、君がしたいなら結婚するし、したくないなら結婚しない」
「だって……」
え？ 何。
云っていることがよくわからない。
「和寅さんが」
「和寅が？」
探偵の眉が上がった。
「あいつが何か云ったのか」
「探偵さんが結婚するって……喜んでいて」
それで――。
なるほど、と云いたげに、探偵が小さく息を吐いた。
「見合い見合いとうるさいから、電話ではっきりと断っただけだ。結婚はするし相手もいるからしばらく放っておけと――」
まったく、と探偵は溜め息をついて、私を睨んだ。
「あれだけ君を好きだと云っているのに、どうして別の女性と結婚すると思うのだ！ 僕を馬鹿にしすぎだぞ！」
「だって！」
「だってじゃない！」
「……だって」
私はまだ十五歳で。
探偵の言葉は戯れのようなものだったから――。
かああ、と頭に血がのぼった。
今ごろ探偵の云うことが理解できて、勘違いしていた恥ずかしさと申し訳なさに逃げ出したくなる。腕を引き抜こうとするが、探偵はムッとしたように眉をあげて私の手を引いた。
絶対に逃がすものかという強い意思のようなものが伝わって来て。
明らかに怒っている――。
「――――ごめん、なさい」
「ダメだ、許さない」
「ごめんなさい……」
「そういえば、君は僕が嫌いなのだったな」
「――」
「大嫌いなのだろう」
「……違います」
「そう云った」
「違います……」
私が泣きそうになっていると、探偵は掴んでいた手首を離して、手を握りなおしてくる。
「聞こえない」
「違います！」
「聞こえないよ」
探偵は意地悪な口調で云い放つと、そのまま門を出るように私の手を引いて歩き出した。
閉門が近いので残っている生徒もいないが、騒ぎを聞きつけたのか、教師の声と足音が聞こえてくる。
私たちは途中から駆け足になって門を出た。
学校からかなり離れたところまで走り、私の息が切れたところで探偵が立ち止まった。
すでにあたりは暗くなっている。
灯りもなく、互いの姿や表情がかろうじて分かる程度。
私はゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「……探偵さん、……手、……離してください」
「いやだ」
「逃げませんから」
「……いやだ」
「探偵さん」
「いやだ」
ぎゅ、と強く握ってくる。いやだ、と繰り返すだけの意固地な子供のよう。さっきまで泣きそうだったのは私なのに、今は彼の方が泣き出しそうな顔をしていた。
私が彼を傷つけた――のだ。
「じゃあいいです」
私は探偵から手を離してもらうのは諦め、逆に彼の手を強く握り返した。
「……」
すると、とたんに探偵は私の手を離した。フッ――と力が抜ける。
手を離せと云えば離さず、離さないでと云えば離す。
――どれだけ天邪鬼なんだ。
思わず呆れたが、私の方から握っているから、手はつながれたままだ。
「――探偵さん？」
高いところにある探偵の顔を見上げるが、探偵は泣きそうなのか怒っているのか拗ねているのか、判断のつかない顔で。
「……怒ってしまいました？」
「……怒っていない」
「本当に？」
「……怒っている」
「どっちですか」
「……君は、」
探偵は私を見て言葉を切った。その先を待つが、いつまで経っても云いださない。だから、私から聞いた。
「探偵さんは、私になんて云ってもらいたいんですか」
探偵の視線が私を捉えた。私もまた目を逸らさずに彼を見つめる。
――云って下さい。
ちゃんと答えるから。
そのまましばらく待っていると、探偵は再び「君は、」と呟いた。
「……君は、僕が嫌いなのか」
「いいえ」
「……じゃあ、大嫌い」
「いいえ」
きっぱりと口にする。
探偵が小さく息を吐いた。
「……僕が好きか」
私はゆっくりと肩の力を抜くと、諾と答えた。
「じゃあ……」
「大好きです」
「僕と結婚したい？」
「――」
そ――。
そんな聞き方は卑怯だ。
「したくないのだな」
「違――」
かっ、と頬に熱が集まる。私は慌てて首を横に振って探偵を睨んだ。
「そんな聞き方、ひどい」
探偵は首をかしげた。
「結婚したい？」
私は言葉に詰まった。それでも探偵が待っているから、私は小さく答えた。
「……したい……です」
「うん」
探偵の物言いが、優しく響いた。
うん、ともう一度呟いて、探偵は私の頬に指で触れた。まるでその言葉が真実であるのかどうかを探るように。
「あとでしたくないと云っても聞かないからな」
「……探偵さんは？」
「ん？」
「探偵さんのほうが、他に結婚したいと思う人が現れたらどうするんですか」
「どうもしないよ」
あっさりと口にする。
「云っただろう、僕が結婚したいと思ったのは君だけだ。君が結婚したいならするし、君が結婚したくないのならしないままでもいい」
フッ――と探偵は笑う。
「相手を選択できるのは男ではなく、いつだって女性なのだ」
探偵は、最後の質問、と囁いた。
「嬉しい？」
私はその質問には答えず、微笑を返した。
「探偵さんは？」
「嬉しい」
「よかった」
私が笑うと、探偵が笑みを返してきた。鳶色の目が優しく細められて、口元には静かな微笑が浮かぶ。
探偵は軽く身を屈めて私の額に口付けると、そのまま肩に腕を回して自身の広い胸に私を抱き寄せた。
「うん」
探偵もまたよかったと、――そう思ってくれているのが分かった。
「探偵さん――」
私が力を抜いて身体を預けると、安堵するような大きな息を吐いて探偵の胸が流動した。
トクトクと、鼓動が聞こえてくる。
彼の体温は私よりも高くて、まるで懐炉のように温かい。
なんて心地いい場所なのだろう。
「探偵さん……」
この人にまだ甘えていていいのだと――。
ずっと甘えていいのだと思うと、それだけで嬉しくてたまらない。
私は。
「探偵さんが好きです」
そっと囁く。
――大好き。
「好きです」
「……」
私の頭に顔を埋めた彼が何かを呟くが、聞き取れない。
祈るような、囁き。
「探偵さん……？」
何？ と聞き返しても、言葉は返って来ない。
でも、悪いことを云われたんじゃないのだけは確かだ。
私は探偵の背中に手を伸ばして、ギュっと強く抱きついた。
――抱きつけることが嬉しかった。
「……ごめんなさい」
彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「ごめんなさい」
何で謝るのだ、と云われるのだろうか。
でも、何度でも謝りたい。
そして、それ以上に感謝の言葉を。
「ありがとうございます……」
探偵は私の伝えたいことがちゃんと分かったのか、何も云わずにただ抱き返してくれた。
了
【古風気味な百の題目／086】
2007.12.26
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