榎木津×美由紀
『験かつぎ』
平日の放課後、私は神田の探偵事務所へと足を伸ばした。
門限を考えると一時間もいられないが、今日は特別に用があったのだ。
事務所のドアを開けると、
「うわー。なにそれ」
益田さんが私の足元を見て、あんぐりと口をあけた。
「全部チョコレート？」
「はい」
学生鞄の他に、大きな紙袋が二つ。
紙袋そのものは銀座にあるデパートのありふれたものだが、中には大小の綺麗な包装紙に包まれたいくつものプレゼントが入っていた。
全部チョコレートだ。
益田さんは相変わらず呆けたような顔で、
「美由紀ちゃんってモテモテなんだね」
と云った。そしてケケケと笑う。
「榎木津さんはまだ帰ってきてないんだ。中で待っていてよ」
二月十四日――。
バレンタインのチョコレートを益田さんと和寅さんに渡すと、二人は探偵に取られる前に、と早速食べてしまった。
私が学校の下級生と同級生から手渡されたチョコレートの数は、益田さんが数えたところによると十六。――直接手渡されたのは十四だったけど、いつの間にか紙袋の中で二つ増殖したらしい。おそらく、私が職員室へ寄ったり手洗いに行っているときに誰かが入れたのだろう。
「すごいなあ〜」
益田さんの言葉に私は苦笑する。
彼が「いくつもらったの」と聞くので、数えるために出したチョコの包みを再び紙袋に入れ直していると、一番大きな箱を持ち上げて、益田さんは疑わしげな目つきで箱を見つめた。
「ホールケーキ……」
「義理チョコですよ」
「義理チョコでホールケーキなんて贈るかなあ……」
私がもらったチョコレートはさすがに全部は食べきれそうもない。３時のおやつにでも食べてもらえば――と思って、一番大きなホールのケーキを渡すと、箱を開けた和寅さんが、「生チョコレートケーキだ」と目を輝かせた。
「さすがお嬢様学校ですなあ。手作りみたいですねえ。それとも特注かなあ」
「美由紀ちゃん。本当にこれ僕たちがもらってもいいの？」
「はい」
皆さんで食べてくださいって云っていたし、と私が云うと、益田さんは嬉しそうに笑った。
「そっかあ。じゃ、ありがたく頂戴しようかな。美味しかったってお礼を云っておいてね」
「はい」
まだ食べていないが、私は快くうなずいた。
和寅さんが皿にケーキを分けて持ってくる。手伝うと申し出たのだが、今日ばかりはダメだと断られた。
「御前さまから美味しい紅茶をいただいたんですよう」
事務所の中に、ほんのりと上品で落ち着いた匂いが漂う。
和寅さんが益田さんの隣に腰を下ろすと、私たちは三人で「いただきます」と両手を合わせた。
口に入れたケーキは口の中でふわりととろけた。思わず悶えてしまう。
「美味しい〜」
「背が高いし、スタイルがいいし、綺麗だし、同性の子にはあこがれのお姉さまだよなあ」
「え？」
ケーキを口に運びながらぶつぶつとつぶやく益田さんの声がよく聞き取れず、私は首をかしげた。
「益田さん、何か？」
「榎木津さんにはライバルがいっぱいいるなあって」
「は？」
意味がわからずに瞬いたとき、事務所の入り口がドバンと音を立てて大きく開いた。
「ひわっ！」
私は久しぶりに叫んでしまう。
「うわははは！ 来ているな女学生君！ 相変わらず、良い叫びだ！」
「た、探偵さん」
心臓が止まる。もしも事務所に心臓の悪い老人がいたら一撃必殺だ。
近頃は、階段を上ってくる足音で探偵の登場を前もって察知することができていたので油断した。
探偵は鐘の音が静まると、うふふと笑った。
「ちゃんと持ってきたかい？」
「はい」
探偵は、持っていた紙袋を目の前に出して胸を張った。
「僕は十六個だッ！」
「私も十六です」
「……」
硬直した探偵に、私は思わず声を出して笑ってしまう。
――女学生君、バレンタインにチョコレートをいくつもらうか競争しよう。
先週の土曜日に変なことを云いだしたから何事かと思ったけど。
本当に突拍子もなくて、可笑しくて、可愛い人。
私はくすりと笑って目を細めた。
「でも探偵さんの勝ちですよ」
なんで、と問いたげな視線に、私の方が驚いた。
「十六個も貰ったら、もういりませんか？」
「――あ」
いる、と探偵は叫んだ。
私は学生鞄の中から小さな箱を取り出した。
「探偵さんのそれに、私の分も足してくださいね」
「そうか！ うん、そうだな。僕の勝ちだ！」
探偵はつかつかとソファーまで歩いてくると、持っていた紙袋を益田さんに押し付け、私の前で嬉しそうに笑った。まるで、子供が母親からおやつをもらうのを待っているかのように瞳が輝いている。
私は立ち上がると、手作りのチョコレートが入った箱を持ったまま探偵を見上げた。探偵の視線がチョコレートの箱と私の顔とをさまよって、早くくれないのかとうずうずとしているのがわかる。
私はわざと背後に箱を隠して、探偵の顔を覗き込んだ。
「欲しいですか？」
「欲しい」
「私からの？」
「君のが」
「どうしても？」
「どうしても」
私は笑って、探偵の前に小さな箱を差し出した。
「じゃあ、あげます」
探偵は私からのバレンタインチョコレートを両手で受け取ると、嬉しそうに相好を崩した。
了
【古風気味な百の題目／074】
2008.01.18
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