榎木津×美由紀
『てのひらの幸福』
美由紀さん、知っている？
「消しゴムに、好きな人の名前を書いて最後まで使い切ると思いが叶うのよ」
遊びに来ていた京極堂の座敷で、学校でおまじないが流行っているのだと美由紀が話すと千鶴子が笑ってそう云った。
「でも、その名前を他の人に見られてはいけないの」
同じ「呪」でも、夫が「のろい」なら妻は「おまじない」――。
古書肆が黒い陰陽師なら、千鶴子は白い魔女だ。
「千鶴子さんもしたことがあるんですか？」
美由紀が首をかしげれば、千鶴子は綺麗な目を細めて、
「ええ」
と云った。
――誰の名前を？
美由紀が視線で問うと、千鶴子は紅唇に人差し指を立てた。
「ないしょ」
ふふ、と笑ってお茶目にも片目を瞑る。
美由紀の目は、自然と向かいに座る古書肆へと向けられた。
仏頂面の石地蔵。甘い物が大好きな死神は、美由紀が千鶴子と一緒に作ったパウンドケーキの焼き上がりを本を読みながら待っている。
千鶴子は消しゴムに「中禅寺秋彦」と書いたんだろうか――。
視線を感じたのか、古書肆がコホンと咳払い。
「――なんだね」
「いえ」
美由紀は首を横に振り、千鶴子と顔を見合わせると声を出さずに笑った。
古書肆は渋面で息を吐く。
「狐やこっくりさんなど絶対に呼ばないでくれよ」
「はい」
おまじない――その言葉が持つ「呪」の本質。定期的な流行の裏で、行き過ぎた呪いによって、必ず憑かれる者が出てくるのだという。
雑誌や本に書かれているものとは別に、どこからか伝わってくる秘術。
恋のおまじないなど可愛いものだと、侮ってはいられない。
消しゴムに好きな人の名前を書き、誰にも見られずに使い切る――。
美由紀は大きな溜め息をつくと、両手で掴んだ湯飲みを見つめた。冷えた手に、湯飲みの暖かさが染みてくる。
「消しゴムかあ……」
ちょうど今使っている消しゴムがなくなりかけているから、そろそろ新しいのを買おうと思っていたところだ。
――が。
美由紀には絶対に出来ないおまじないだった。好きな相手の名前を書いた時点で、その相手に分かってしまう。まさか消しゴムを使い切るまで榎木津に会わない――というわけにもいかない。
美由紀の悩みを察した千鶴子が「あら」と笑った。
白い魔女は目を瞑り、笑みを浮かべたまま楽しそうに人差し指をさらさらと動かした。
「目をつむって書けば良いのよ」
※
翌週、探偵事務所で美由紀が宿題をしていると、二時を過ぎてやっと起きてきた榎木津がソファーに座った。
「おはようございます、探偵さん」
「おはよう」
あふふ、と榎木津は大きなあくびを漏らす。まだ眠たそうな男に笑みを返して、美由紀は再び宿題を片付けはじめる。
榎木津はしばらくぼうっと美由紀の様子を見ていたが、視線が筆記用具に移り、「あ」と云った。
「消しゴムが新しいじゃないか」
前屈みになり、長い腕を伸ばして消しゴムを掴む。
「僕の名前は書いてあるかな？」
「――！」
美由紀の驚く顔にニヤリと笑い返し、榎木津は消しゴムに巻かれた紙をス――と取り外した。
「なーんだ、書いてないのか」
「なんでそれ――」
「僕だってそれくらいは知っている」
榎木津は美由紀の筆箱を漁り、中からボールペンを取り出した。
何をするのかと見つめる美由紀の前で、榎木津は消しゴムにボールペンを走らせた。
「えのきづれいじろう、と」
「ちょ――」
「ほら、出来たぞ」
ニコ！ と満面の笑顔で、榎木津は消しゴムに書いた自分の名前を美由紀に見せた。
「これを使い切ったら両思いだ！」
うわははは、と楽しげに高笑い、はい、と美由紀の手に渡す。
「早く使いなさい」
「探偵さん……」
思わず、漏れたのは苦笑。
「これって、書いた名前を人に見られたらいけないんですよ」
「僕は良いのだ。神が見なかったら願いは叶えられないじゃないか！」
榎木津は「よし！」と叫んで立ち上がった。
「僕も消しゴムに女学生君の名前を書こう。今から買ってくる！」
云うと、すたすたと事務所を出て行ってしまう。
やっと起きてきたかと思えば、まるで台風のように通過していく。
ひとり事務所に残された美由紀は、手の中の消しゴムを見つめた。
「榎」だけが妙に大きな名前。六文字もあるから消しゴムが文字で埋まっている。
美由紀はそれをかざし、楽しそうに目を細めた。
「ふたつになっちゃった」
あはは、と声を出して笑いたい気分。
昨日、同じ消しゴムをふたつ買ったことを榎木津は知らない。
そのひとつには、目を瞑って男の名前を書いたばかりだったことも。
その上、もうひとつの消しゴムにまで同じ名前が書かれてしまった。
自分の持ち物には名前を、と云われた小学校のことを思い出す。
「なんだか、探偵さんの消しゴムみたい」
可笑しくてくすくすと笑う。
――僕だってそれくらいは知っている。
榎木津も知っていたおまじない。千鶴子に聞いたのだろうか、それとも別の人から？
――彼もしたことがあるのだろうか。
そう考えて、ふと美由紀は首をかしげた。
榎木津は美由紀の名を書くと云っていたが、ちゃんと間違えずに書けるのだろうか。
あー、と美由紀は肩の力を抜いて笑った。
「花子とか美代子とか書かれそう……」
そんな一抹の不安も、手の中の幸せには敵いそうになかった。
了
【古風気味な百の題目／001】
2008.02.16
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