榎木津×美由紀
『だめだよ』
水曜日の午後。
薔薇十字探偵社の扉を開ける前から爆笑する声が響いていたのだけれど、私が扉を開ければそこは宴会場と化していて。
カランカランという鐘の音に、中にいる人の視線が一斉に私へと向けられた。
「あれえ？ 美由紀ちゃんだぁ〜」
ひとり立ち、扉に一番近かった益田さんが首をかしげた。
「どうしたの？」
「どうしたのって……」
「忘れ物？」
酔っているのだろう、益田さんは細い目をさらに細くして首をかしげた。すでに身体は斜め45度くらいに傾いている。
足元には酒瓶が転がり、酒よりも煙草の臭いが強い。事務所の中は霞むほど白く煙っていた。何度かこういう場面に遭遇したことがあるけれど、今までで一番ひどい。外が寒いからといって、換気もせずに何時間この状態なのだろう。この部屋の中に五分もいたら服や髪に煙草の匂いが染みついてしまいそうだった。
部屋の中には益田さんと和寅さん、鳥口さん、木場刑事がいて、酔いつぶれてテーブルに突っ伏しているのはおそらく青木刑事だ。
見たところ、探偵はいない。
「益田さんが電話をくれたから……」
「ああ……！ そっか、そうだよね。榎木津さんに会いに来たのかぁ……あれ？ 榎木津さんは……？」
「馬鹿なら煙草を買いに行ったぜ」
木場刑事が握りつぶした煙草の紙を振った。
「待ってりゃすぐに来る」
寮に掛かって来た電話――事件が解決したという連絡に嬉しくなって土曜日を待たずに来てしまったけれど、はやり出直そう――と思った。
「あの、また週末に来ます」
これだけ酒で盛り上がっているのだから、そんなに陰惨な事件ではなかったのだろう。それとも酒で忘れたいほど悲惨な事件だったのか――。
もともと探偵の顔だけ見て帰るつもりだったし、ぺこ、と頭を下げて出直そうとすると、益田さんが「あー！ 待った待った、らめらめ」と私を引き留めた。
「せめて榎木津さんに会ってからにしてもらわないと」
「でも」
「僕たちだけ美由紀ちゃんと会ったと分かったら、オジさんの機嫌が悪くなっちゃうよ」
と、おそらく普通に話していればそう云っているのだろう――実際には呂律が回っていない。
「じゃあ、外で待たせてもらいます。私もすぐに帰らないと行けないし」
「えええ〜！ ここにいなよう〜」
益田さんがよろよろと近づいてくる。
「ちょっ……、大丈夫ですか？」
「だいじょうぶ、だいじょうぶぅ」
ひらひらと手首を上下に振って、「大丈夫」と云っているそばから彼の身体がよろめいて傾いた。
「うわ！」
私は慌てて彼の前に飛び出し、倒れそうになった身体を支えるが、重みに耐えられなくてそのまま床に押しつぶされてしまった。
「益田さん……！」
「えへへ。ごめんごめん」
「飲み過ぎですよ！」
くて、と寄りかかってくる身体はいっこうに起き上がる気配がない。ほとんど抱きしめられている状態だ。
「大丈夫ですか？」
「だーいじょうぶぅ〜だいじょうぶっ！ へへへ」
私を枕と勘違いしているのか、むにゃむにゃと気持ちよさそうに呟いている。胸元にある彼の顔は今にも夢の中に入りそうな表情だ。普段、痩せて軽そうなのに、脱力した身体は想像以上に重くて脇へ退かすこともできない。
「刑事さん！」
何とかしてください、と木場刑事に助けを求めたとき、背後でカチャリとドアノブが回る音がして開いたドアが私の背にぶつかった。
ん？ と顔を覗かせた探偵が、真上から私に気づいた。
「探偵さん！」
助かった、と私は胸をなで下ろしたが、
「女学生君、どうし――」
探偵の笑顔が固まった。
私が説明をする前に状況が分かったのだろう。探偵は人ひとりが通れる隙間から入ってくると、私の身体に回った益田さんの手を掴んで乱暴に引き離した。
次に益田さんを抱き起こしてくれるのだろうと思っていたら、探偵は私の脇の下を掴んで身体を引き抜いた。その勢いで、ゴンと音を立てて益田さんの身体が床に激突する。
「――ッ！」
ぎゃ、と叫んだのは益田さんじゃなくて私だ。
「益田さん！ 大丈夫ですか！」
「へへへ、へにゃふにゃ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
顔から落ちたから相当痛いはずなのに、自分の状況があまり分かっていないようだった。相当酔っている。きっと探偵や木場刑事が面白がって無茶苦茶に飲ませたに違いない。
探偵は私の身体をそのまま子供みたいに抱きかかえた。
「何をしているのだ」
低い声。
探偵は無言で私を見つめた後、記憶を見たのか――険悪極まりない顔で益田さんを見下ろし、彼の背中を片足で踏んだ。
「殺す」
「ちょ……！」
なに云っているんですか、と私は暴れたが、足をしっかりと抱きかかえられて抜け出せない。
「探偵さん！」
「女学生君を抱くなど一億六千万年早い！」
「抱くって何ですか！」
「一億六千万年経ったら抱いてもいいということじゃないぞ！」
「そんなこと聞いていません！ 抱いていたんじゃなくて、支えていたんです！」
私は「支えて」の部分を強調した。抱くと支えるとでは大きな違いだ。
探偵はムッとしたように口を曲げると、ギュウッと私を抱き寄せ、とんでもないことを叫んだ。
「僕だって女学生君を押し倒して胸に顔を埋めたことがないのに！」
「は！？」
突拍子もない声で叫ぶ私の目の前で、探偵は視線で人さえ殺せるような冷たい目で益田さんを見下ろした。
「こいつの頭から記憶を消してやる」
目が本気だ。私は探偵の両頬を掴んで自分の方へと向けさせる。
「冗談でも止めてください！」
「冗談じゃないよ」
真剣な顔。
「――」
私は探偵を止めることができる唯一の人物に助けを求めた。
「刑事さん！ 止めさせてください！」
「おう、なんだ、もう終わりか」
木場刑事はガハハと笑った。
「寸劇だな」
「益田さんが殺されちゃいます！」
「そりゃいけねえな」
ドスは聞いているが、全然いけない、とは思っていない声だ。
「おい、礼二郎、そこまでにしておけよ」
「止めるのか木場修」
「そんなに不満なら、お前もしてもらえばいいじゃねえか」
刑事の言葉に事務所内はシンと静まり、私が騒ぐのと、探偵の顔が輝くのが同時だった。
「おお！ そうしよう」
「冗談――！」
「冗談じゃないぞ、女学生君！ 僕に押し倒されるか、下僕が死ぬのか、ふたつにひとつだ！」
「どっちもいやです！」
「女学生君」
探偵は精悍な顔で私を見つめた後、諭すような口調で云った。
「本当は両方したいけど、ここは木場修の四角い顔に免じてどちらかひとつで許してやるのだ。神の慈悲に感謝したまえ」
「もしかして酔ってます！？ 酔ってますね！？」
私の悲鳴に、探偵はにっこりと笑い返してきた。
「さあ、どっちにする？」
了
【古風気味な百の題目／041】
2008.02.17
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