榎木津×美由紀
『因果』
「美由紀ちゃん、正直に云って」
益田さんの真剣な顔に、私は背筋を伸ばしてハイと答えた。まるで警察官の職務質問のようだ。
「榎木津さんの機嫌はなんで悪いの」
「えっと……」
「美由紀ちゃん。正、直、に」
「えっと……」
正直に、といわれても、原因がどこにあるのかを説明するのはとても難しくて。
益田さんは探偵が不貞寝している寝室に視線を向けた。
「散歩に行って、何があったの」
「何って……迷子の子供を見つけて……」
三歳くらいの女の子で、お母さんとはぐれたというから探偵が肩車をして母親を探したのだ。
「それで？」
「それだけです」
益田さんはきょとんと瞬いた。それでなんで榎木津さんの機嫌が悪くなるの、と問いたげな顔をしている。
「――あ！ 誘拐犯と間違えられたとか！」
「いえ。写真を……」
「写真？」
はい、と私は頷いた。
「写真を撮られて」
「ああ、無断で撮られたのか、それは怒るかもなあ……」
ちがう、と私は首を横に振った。
機嫌は良かったのだ。
――ただ。
「ずいぶんと年の離れた姉妹ですねお父さん、って云われて」
それから探偵の機嫌は悪い。
シン、と静まり返った事務所に、益田さんのため息が落ちた。
「それは……」
確かに、探偵には私くらいの年代の子供がいてもおかしくないのだけれど。
「難しいなあ……」
益田さんはギリギリと爪を噛み、眉を寄せた。失言したカメラマンを怨むように宙を睨む。
「お父さんかあ。せめて美由紀ちゃんのことを若い奥さんですね、とか云ってくれたらよかったのに」
益田さんの言葉に引っかかりを覚えて、私は口を開けた。
「あ……」
「ん？」
「それかも……」
「え？ それ？」
なに、どれ、と益田さんが身体を乗り出した。
私は探偵が機嫌の悪い理由に気づいて頭を抱えたくなった。
「奥さんです」
「奥さん？」
「探偵さんが、私のことを奥さんだって云って」
――ずいぶんと年の離れた姉妹ですねお父さん。
肩車をしている子供と私を見てそう云ったカメラマンに、探偵は私の手を握ると、ニコニコと笑って云ったのだ。
「彼女は僕の奥さん」
それに対して、私は即座に違うと否定してしまったのだ。
「美由紀ちゃん……」
じと、と益田さんが半目になって私を見た。
あああ……。
――原因は間違いなく私だ。
「あ、あの、私、謝ってきます！」
慌てて立ち上がると、益田さんが私の手首をつかんだ。
「こらこら。謝ったらだめでしょ」
「え？」
「謝ったらだめ」
「え、でも――」
謝らないと、ずっと機嫌が悪いままなんじゃ――。
「本当のことじゃないんだから、否定したって仕方がないよ。それで拗ねるほうが子供なんだ」
「でも」
「美由紀ちゃんは悪いことをしたわけじゃないんだから」
いつになく、益田さんはまっすぐな言葉を向けてくる。私が肩を落とすと、だからね、と目を細めて彼は笑った。
「謝るんじゃなくて、別の方法で機嫌を直してもらおう」
「別の方法？」
「そう。とりあえず、今日はずっと榎木津さんのそばにいようか」
「は？」
「いるだけでいいから」
いるだけで？
首をかしげる私に、うんと益田さんは頷いた。
「いるだけで、機嫌は良くなるよ」
いるだけで機嫌が良くなる――と益田さんは云うけど。
ノックをしても返事がないのでそのまま寝室に入ると、探偵はベッドで大の字になっていた。目は閉じているが眠っているのではなく、ただ横になっているだけだとひと目でわかった。
それとも、寝ていたけどノックで起きたのだろうか。近づいていくと、大きな目が開いて私を見つめてくる。
淡い瞳の奥に、彼の感情が覗く。
どき、と心臓が高鳴って私が立ち止まると、探偵は何か云いたそうな顔を一瞬だけして、目をそらした。
「いま何時」
「三時です」
あと一時間しかここにいられない。
私はためらいながらしばらく探偵を見つめていたが、覚悟を決めて、彼の脇に腰を下ろすとそのまま身体をゆっくりと後ろに倒した。
心臓がドキドキして止まらない。私は探偵の腹部を枕にして目を閉じた。
そばにいればいいと云われたけど、何をしたらいいのかわからない。だったら、と京極堂の猫が探偵に寄り添うようにしてみたのだった。
探偵の反応が気になって鼓動が早くなる。
拒否されたらどうしよう、と思っていると、探偵の手が動いて私の顔に影ができた。思わず息を止めると、探偵の手が私の目を覆い、ゆっくりと前髪をかきあげた。
「――」
ほう、と息を吐き、肩の力を抜いた。
探偵は何も云わず、私の額に手を置き、猫に触れるように髪をただ撫でた。
何か云ったほうがいいのだろうか。
でも、何を云えばいいのだろう。
益田さんは謝ったらだめだと云った。ということは、謝ったら探偵の機嫌は余計に悪くなるということだ。
わからない――。
――私を奥さんと云った彼の冗談を、冗談として笑えなかったから機嫌を損ねているんじゃないの……？
何がいけないのか、一言でも云ってくれたらいいのに――。
そう思いながら、云われないことに安心している自分がいるのも確かで。
――いつか、わかるようになるのだろうか。
私は探偵の呼吸に合わせて息をそろえ、そっと目を閉じた。
結局、私はそのまま寝てしまい、一時間が経って益田さんが呼びに来たときには探偵の機嫌は良くなっていたのだった。
本当は機嫌など悪くなかったんじゃないだろうかと思ってしまうほど、探偵はいつもの探偵だった。
ね、と益田さんがウインクをするので、私は小さく笑い返した。
益田さんの云ったとおりだ、と不思議に思っていると、探偵は私の背後でふわあと大きなあくびをして背伸びをした。
「よく寝た」
「……」
彼を見上げると、探偵は私の視線に気づいて口角を上げた。
やっぱり謝ったほうがいいんじゃないだろうか。
私がためらっていると、大きな手が私の髪をくしゃりとかき回した。
「次は否定しないように」
「……」
「――all right？」
優しく、目を細められる。
「はい」
私はこくん、と頷いた。
了
【古風気味な百の題目／007】
2008.05.16
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