京極100のお題（榎木津×美由紀）
０６．若者
土曜日の夕方、仕事から帰ってきた探偵に美由紀がお帰りなさいと云うと、驚いたように目を見開いた男は、嬉しそうに破顔した。
「ただいま」
どうしたのだ、と榎木津は美由紀に近づいた。
「今日は来ないんじゃなかったのか」
「用事が早く済んだから来ちゃいました」
「そうか」
うふふ、と探偵は笑った。
「僕に会いたかったのだな」
「ち、が、い、ま、す。探偵さんが私に会いたいんじゃないかなあ、って思ったんです」
「云うな」
ニヤリと笑うと、榎木津は美由紀の頭をくしゃりと撫でた。
「送るよ」
「あ、いえ」
美由紀は背筋を伸ばして、慌てて首を横に振った。
「いま帰ってきたばかりじゃないですか。休んでいてください」
「いいから」
「よくないです」
「いいと云っているのに」
「だめです」
「頑固だな」
榎木津は、だって、と美由紀が口に出しそうな気配を片手で止めた。
「僕が君ともう少し一緒にいたいだけだ」
「――」
美由紀は頬を赤くすると、言葉に詰まったように視線をそらした。恥ずかしそうなその表情が、素直じゃない少女の感情を明確に表している。
「女学生君の負けだよ」
榎木津はくつくつと笑って、
「さあ行こう」
美由紀に手を差し出した。
「若者は年上の云うことを素直に聞きたまえ」
０７．馬鹿だなあ
「美由紀さん、なんだか今日はずいぶんと他人行儀でしたねえ」
美由紀が帰ったあとに寅吉がつぶやく。
「先週はすごく和んでいたのに……」
先生何かしましたか、と聞かれて、僕は知らないよと答えた。
聞きたいのは自分の方だ。美由紀を近くに感じたと思ったら急に離れたり、遠くに感じたり。僕のそばにいてリラックスしているときもあればひどく緊張していることもある。云いたい放題のときもあれば、今日みたいに妙に他人行儀なときもあって、好意をもたれているのか嫌われているのか、判断がしにくい。彼女の心が手に入ったと喜んだとたんに、指先からすり抜けてしまったような感覚が近頃多い。
「先週が楽しかったからじゃないですか？」
イヒヒと笑って、益田が云った。
「ちょっと馴れ馴れしかったかなって、きっと気にしちゃっているんですよ」
なんだそれは、と思わず眉を寄せると、可愛いですよねえと益田が笑う。
「榎木津さんが以前みたいに無茶云わないし、無茶しないし、余計に不安になっちゃうんだろうなあ」
「意味がわからん」
何のことだと問えば、益田はだから、と云った。
「昔は、こっちへ来なさいとか、膝の上に座りなさいとか、頭撫でたり、急に抱きついたり、キスしたりしてたじゃないですか」
あー、と寅吉がうなずいた。
「美由紀さんは嫌がりますからねえ。でも、安心は出来るわけかあ」
「うんうん。女の子だよねえ」
二人だけ分かったような顔をしてうなずいている。
自分だけが分からない。
なんだか腹が立って、手元にあった紙を丸めて益田の頭に当てた。
「分かるように説明しろ」
「だから、以前は榎木津さんが美由紀ちゃんを振り回していたけど、今は逆じゃないですか。美由紀ちゃんは自分の立ち位置がわからなくて手探り状態なんですよう」
「わからん」
「だからぁ」
益田は大きな溜め息をついた。何でわからないんだこの人は、という表情を隠さない。
「榎木津さんが美由紀ちゃんを放っておくから、嫌われたんじゃないかと思って不安なんですって」
「嫌いになるわけないじゃないか」
「だ、か、ら！」
益田は、僕が投げた紙のボールを返球してきた。
「榎木津さんが絶対に嫌いになるわけがないって、美由紀ちゃんは知らないから不安なんでしょう！ 美由紀ちゃんが嫌がろうと、榎木津さんはしたいと思ったことをしていたらいいんです」
「僕が嫌われるじゃないか」
「今更なに云ってんスか！ あれだけしたい放題しといて！ ――嫌いな男の所になんて、わざわざ会いに来たりしませんよ」
それに、と云いながら、益田は帽子を被って帰る支度をする。
「美由紀ちゃんが本当に嫌がることは、榎木津さん、しないでしょう」
真っ直ぐに僕を見る。その真剣な顔を真っ直ぐに見返したら、益田はへらりと笑った。
「それじゃあ、今日は僕、もう帰ります」
お疲れ様でしたー、と間延びした声で益田は行ってドアに向かう。益田の背中を睨んでいると、
「あ。――そういえば」
何かを思い出したのか、振り返った。
「美由紀ちゃん、今日は図書館に寄るって云ってましたよ」
「――」
ニヤリと笑う益田に向かって紙のボールを投げると、僕は腰を上げた。
０８．うふふ
「女学生君、嘘ついて！」
「は？」
春休み、事務所に訪れるなり探偵に云われて、私は目を丸くしてしまう。
ハッとして、カレンダーに目を向ければ今日は四月の一日だ。エイプリルフールか、と即座に気づいたものの、いきなり嘘をつけと云われても困る。
そんなことは、前もって云ってもらわなければ。
「え、えっと」
「うん！」
「その……」
「うん！」
とっておきの嘘を期待する探偵の目に、私はたじろいだ。
「いきなりは無理です」
探偵は大きな目を細めて、はははと笑った。
「じゃあ、僕がこれから色々と聞くから、嘘で答えなさい」
いい？ と云われたのでハイと頷く。
「女学生君は僕のことが好き？」
「えっと」
嘘をつくのだから……。
「嫌いです」
うん、と探偵は頷く。
「君は僕のことを愛している」
「愛していません」
うん、と頷いて、探偵は嬉しそうにうふふと笑った。
０９．買い物
買い物に行こう、と探偵が云った。
何を買いに行くんですかと聞いても「内緒！」と笑顔で教えてくれない。手を差し出されたので重ねる。事務所を出ると、神保町の古書店街を通って神田の駅に向かって歩いた。
空を見上げると、澄んだ空気にどこまでも広がる青がキラキラと輝いている。
「楽しそうだな、女学生君」
隣を歩く探偵が握った手を揺らした。
「僕と一緒だから楽しいのだろう」
「探偵さんだって楽しそうです。――私といるからですか？」
云ってから、ハッとする。慌てて背後を見て一気に紅潮した。
一緒にいるの、忘れてた――！
「あはは、はは」
後ろを歩いていた益田さんが八重歯を見せて照れ笑った。
「いいの、いいの。僕のことは気にしないで」
１０．雨
「女学生君、今日は雨が降るから傘を持っていきなさい」
いつもの土曜日。夕方になって探偵事務所から帰ろうとしたら探偵に呼び止められ、私は息が止まるほど驚いて、勢いよく振り返った。
――美由紀、今日は雨になるよ。
今でも鮮明に思い出すことができる小夜子の声。
聖ベルナール女学院に入ってしばらく経った頃、朝、寮を出る前に小夜子に呼び止められたのだ。
「雨？」
玄関から外を見ても、雨雲ひとつ見えなかった。
「降りそうにないけど」
「折りたたみでいいから持って行ったほうがいい」
小夜子は不機嫌そうな顔のまま指先で横髪を弄り、「絶対に雨」と云った。
「髪の毛がチリチリでまとまらない」
小夜子の赭髪――ココア色の髪は自然と緩やかな波を描いている。確かにいつもよりもまとまりがなく、切れ毛や毛先が跳ねているような気はするけれど。
「わかるの？」
「わかる」
そういえば、朝食で食堂に出てきたときから小夜子はしきりに髪を気にしていた。
へえ、と云いつつ、特に信じたわけではないが一応折りたたみの傘を持って学校に行ったのだ。
それきりその会話を忘れていたが、昼を過ぎると空模様が急に怪しくなり、五時限目が終わる頃には雨が降り出したのだった。
寮は学校の敷地内にあるので、傘がなくて濡れるといってもたかが知れているが、それからというもの、小夜子が今日は雨だといえば迷わずに傘を持つようになった。
――美由紀、今日は雨だよ。
小夜子の声が聞こえる。
そういえば、探偵と小夜子の髪質は同じだ。探偵の方が色は明るいけれど。
「髪――」
で、わかるんですか？
思わず口にすると、探偵は深く腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がり、私の前まで歩いてきて、両手で私の頬を挟んだ。
なぜかムッとした表情で私を見下ろす。
「また小百合か」
――ああ、また見えてしまったのだ。
「小夜子、です」
「僕の発言で泣かれるのは不本意だ」
「泣いていません」
「泣きそうな顔をしているじゃないか」
「……泣きません」
下唇を噛んで睨むように探偵を見上げる。しばらく目をそらさぬまま見合っていたが、先に視線をそらしたのは彼のほうだった。
深い溜め息。
「わかった」
頬に当てていた手がそのまま首の横を取って、私の肩を探偵の腕が滑っていく。
探偵は私の顔を自分の胸に当て、頭上に唇を当てて囁いた。
「じゃあ、雨だ」
了
【京極100のお題 01〜10】
06：2008.08.09
07：2008.04.12
08：2008.04.01
09：2007.12.18
10：2007.09.06
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