京極100のお題（榎木津×美由紀）
１６．病院
いつもの土曜日。
女学生君、と笑顔で迎えてくれた探偵は、私の顔を見た瞬間、急に真剣な表情になって歩いてきた。
靴音を響かせて私の前に立つと、二の腕をがしりとつかまれてしまう。
「あ、あの、探偵さん……？」
驚くというより戸惑って探偵を見上げると、精悍な顔が私を見下ろしてきた。
「どこか悪いのか」
「え？」
「病院に行っただろう」
「行ってません」
きょとんとしていると、探偵は探るように私の目を見てから、次第に力を抜いて、ほうと息を吐いた。
「そうか。――なんでもない」
あっさり私を解放すると、身を翻した。
「和寅、珈琲！」
「探偵さん？」
「なんでもない」
「あ」
私は探偵が慌てた理由に気づいて彼の背中を追った。
もしかして、と思う。
先日、学校で行なわれた健康診断に来た医者の姿を「視た」に違いない。
「この前、体力測定と健康診断をしたんですけど」
彼の袖を掴む。
健康優良児でした、と云ったら振り返った探偵が私を見下ろした。
じ、と見つめられるので、本当ですよと笑う。
「もっと太ったほうがいいって云われましたけど」
「……医者の云うとおりだな」
ぼそりと呟いて、探偵はソファーに腰を下ろした。
「抱き締めたら折れてしまいそうじゃないか」
私はくすりと笑った。
「折れませんよ」
「折れる」
「折れません」
「怖い」
「怖くないです」
探偵はニヤリと笑うと、両手を私に向かって差し出した。
「じゃあ、試してみよう」
１７．海
真冬の海がこんなに寒いものだったとは。
車から出ると空気が刺さるような寒さに身震いする。
いきなりドライブに行こう、と誘った本人は、寒さも感じさせないほど元気に砂浜へと降りていく。
元気だなあ……。
波際で仁王立ちになって海を見ている男の後ろ姿を私は見つめた。
黒いコートに手織りのマフラーがなびく。
戦時中には海軍だったというから、たくさんの思いが海にはあるだろう。
散った命、失った命、残された命、守った命、たくさんの祈り。
彼にかける言葉を私は持たない。
ただ黙ったまま彼を見守っていると、しばらくして探偵がくるりと振り返った。視線が合って、私が小さく笑い返すと、大股で戻ってくる。
「ずっと見ていたのか。車の中にいればいいのに」
「その方がよかったですか？」
「いや」
探偵は自分のマフラーを外しながら、目を細めて笑った。私の首にマフラーを二重に巻いて結ぶ。顔の半分が隠れて、それだけで冷えていた身体が一気に温まった。風が遮断されて、耳に熱が集まる。
反対に彼の首元が寒々しいが、探偵はコートの襟を立てると私の手を握って歩き出した。
「ただ見ているくらいなら、僕の背中に抱きつきなさい」
その方が暖かい、と彼は云う。
暖かいのは探偵？
それとも私？
「じゃあ、今度からは、そうします」
「うん」
波打ち際をゆっくりと歩いた。
波の音、海鳥の鳴き声、風の音、水音雑じりの砂上、そして衣擦れ。
静かなのに、たくさんの音に包まれる。
時折、貝の割れる音がして、歩みとは逆に探偵の吐く息は後方に流れていく。
会話を交わすわけでもなく、ただ歩く――それだけで楽しくて。
地平線や波、砂浜や貝、砂浜に上がった流木を見ていると、
「今からでも遅くないぞ」
探偵がボソリと呟くから、私は笑みを漏らしてぴたりと彼に寄り添った。
１８．独り占め
益田さんが「じゃーん」と口にして目の前に出したのは、襟と袖口だけが白い黒のワンピースに、フリルがたくさんついた純白のエプロンだった。
ニコニコと、彼は嬉しそうに笑う。
「美由紀ちゃん、着てみてよ」
「なんだかメイドさんみたい……なんですけど」
「みたいじゃなくて、メイドさんの服だもの」
「ええ！？ だって、私がするのって、お茶を出したり掃除をしたり探偵さんを起こしたり電話を受けたり……するだけですよね？」
って、自分で云って気づく。ああ、それはまさしくメイドの仕事じゃないか。
和寅さんが今度一週間の休みをもらうので、その間、彼の代わりに探偵事務所でアルバイトをすることになったのだ。ちょうど七月の末なので私は夏休み。実家に帰るのを遅らせて、事務所へは寮から通うことになっていた。
事務じゃなくてメイドのアルバイトだと思えばいいのかもしれないと認識を改めたとき、
「女学生君はメイドじゃないのだからそんな服を着なくてもいいのだ！」
バンッと寝室の扉が開いて、探偵が現れた。
仁王立ちの神様は、じっと私を見て、どこか不機嫌そうに眉を寄せる。
「君に女中をさせるために頼んだわけじゃないぞ」
なんだかそれを聞いたら自然と笑みが漏れてしまった。
「探偵さんが用意したんじゃないんですか？」
「勝手に持ってきたのだ」
「益田さんが？」
探偵助手に視線を向けると、彼はケケケと笑った。
「榎木津さんだって喜ぶと思ってさ」
「女学生君なら何を着ても僕は喜ぶ。だから、着たくないのなら着なくてもいいのだ」
「はい」
「いつもの制服でいい」
「はい」
私は笑った。
「でも、せっかく用意してもらったので着てみますね。和室借ります」
服を受け取って和室に入ると、益田さんが箱に入った靴と靴下を持ってきてくれた。
「エプロンと靴下は換えもあるからあとで渡すね」
それから――、と益田さんが手招くので、なんだろうと顔を近づけると、
「実はそれ、和寅さんがその姿だったら榎木津さんが手を出さないって云うから選んだんだよ。榎木津家の使用人が使っているものと同じなんだって」
と囁いた。
私は目を丸くしてしまう。
「――そうなんですか？」
益田さんはウインクをする。
「だから安心してアルバイトに来てね」
「――はい」
私は苦笑してしまう。アルバイトをすることになったとき、探偵は和室が空いているのだからそこに泊まればいいと主張し、和寅さんと益田さんはとんでもないと大反対。そんなことをしたら私の貞操が危ないとまで云う。そんなことが起こるはずはないと私が云っても彼らは首を縦に振らなかったのだ。
和室の襖を閉めて制服を脱いだ。
ワンピースのチャックを開けて脚を入れ、背中のチャックを閉めて襟を整える。ワンピースだけならシスターみたいだ。エプロンをつけて腰の後ろで蝶々結びにすると、白い靴下を穿いて三つ折りにする。レースのついた白いカチューシャもあったので頭につけると、たちまちメイドの出来上がりだ。
――よし。
姿見で一度チェックしてから、襖を開いた。
「できました」
「わ、美由紀ちゃん可愛い！」
待っていましたと云わんばかりに叫んだ益田さんの賛辞に礼を返して靴を履く。
「どうですか？」
「回って回って！」
くるりと回ってみると、益田さんは手が痛くなるんじゃないかと思うほど拍手した。
「可愛い〜！ 似合っているよ！」
「ありがとうございます」
ふふ、と笑って探偵を見た。
――探偵さんは？
真っ先に可愛いと云ってくれそうな彼は、不機嫌そうに口をへの字にして私を睨んでいる。やけに真剣な眼差し。真面目な顔の探偵はやけに威圧感があって、そのままカツカツと靴音をさせて近づいてくるから、思わずビクリと身を縮めて目を瞑ってしまう。怖い、と思った瞬間、
「ッ！？」
ひょい――という浮遊感。私は腿を抱かれ、そのまま子供のように抱き上げられたのだった。
「探偵さん――！？」
あわてて頭に抱きつくと、いつもなら「うわははは」と笑いそうな探偵は、不機嫌そうな顔のまま益田さんを睨んだ。
「お前も和寅と一緒に休みをやる！ 出てきたらクビッ！」
えええ！ と非難する益田さんを無視して、探偵は私を見上げると満面の笑みを浮かべた。
「僕の！」
この格好なら、探偵は手を出さないのではなかったのか――。
「ものすごく可愛いじゃないか！ 油断大敵、火がボウボウだッ！」
「は！？」
探偵はニヤリと笑った。
「その服を着たら手を出さないと思ったら大間違いだぞ！」
「――え！？」
「君はメイドじゃないのだからね！」
可愛い服を着た女の子だ、――と探偵は云った。
１９．バナナ
つるっ、と。
まるでそんな音が聞こえたような気がした。
「うわっ！」
少女は叫び、ドンと派手な音を立てて尻餅をついた。
「美由紀ちゃん！」
「美由紀さん！」
「うわはははは！」
榎木津さんがゴミ箱に投げて――外れて落ちていたバナナの皮を踏んで、美由紀ちゃんが滑って転んだのだ。
「女学生君！ 見事なこけっぷりだ！」
「榎木津さん！」
「先生！」
なんてことを云うんだ！
「美由紀ちゃん大丈夫！？」
僕と和寅さんが駆け寄ると、彼女は乱れたスカートを調えて、恥ずかしそうに顔を覆う。紅潮した顔を俯かせて、こくりとうなずいた。
「バナナの皮で滑った人間を見るのは初めてだッ！ さすが女学生君！」
榎木津さんの高笑いに、僕は本気で怒った。
「榎木津さん！」
「なんだよ」
「そんなことを云ったら美由紀ちゃんがかわいそうじゃないですか！ ――美由紀ちゃん、立てる？」
「は、はい」
その目に、ぶわっと涙が浮かぶのを見て、僕は焦った。
「痛い！？ 痛いの！？」
「ちが……」
美由紀ちゃんは首を横に振って、慌てて涙を拭った。
「恥ずかしくて」
相当恥ずかしいのだろう。耳から首まで赤面している。
「恥ずかしくなんてないよ！」
「そうだ、全然恥ずかしくなんかないぞ」
誰のせいだ誰の、と云いたくなるほど呑気な声がしたかと思えば、榎木津さんは、ひょいと拾ったバナナを皮を僕の頭の上に乗せた。
「人間、滑りたくてもそうそうバナナの皮で滑ったりはしないのだッ！ 君はやっぱり見所がある！」
何が見所か！
これが僕や関口さんだったらともかく、相手は女の子だということをこの人は忘れている。しかも、倒れたのは美由紀ちゃんなのに！
文句のひとつでも云ってやらねば気がすまない、と僕はバナナの皮をつかんで立ち上がった。
「榎木津さん……！」
反対に身を屈めた探偵が、美由紀ちゃんの前に手を差し出した。
「ほら、立てるかい」
美由紀ちゃんはしっかりとうなずくと、榎木津さんの手を借りて腰をあげ、自分の力で立ち上がった。
「ありがとうございます……」
恥ずかしそうだが、しっかりと応えると、榎木津さんは目を細めて美由紀ちゃんの頭をぐりぐりと撫でた。
「転んじゃいました」
「見事なすってんころりんだったぞ」
愉快そうな榎木津さんの言葉に、美由紀ちゃんは小さく吹き出した。
「もう最低。お尻が痛いです」
「二つに割れた？」
「はい」
「それは大変だ」
笑いを含んだ、全然大変そうじゃない声。
美由紀ちゃんからも笑みが漏れていた。スカートの裾を整えながら、お尻を擦っている。
「益田さんも和寅さんも、驚かせてごめんなさい」
呆然としている僕たちに頭を下げるので、慌てて手首を振った。
「いやいや、全然。――大丈夫？」
「はい」
照れ笑う顔には、涙のひとつもない。
榎木津さんはソファーに戻ると、テーブルの上に置いてあるバナナを二本ちぎった。
「女学生君にはバナナを二つあげよう。憎き仇と思ってもりもり食べなさい」
美由紀ちゃんはバナナを貰うと、くすくすと笑った。
「はい」
――ああ。
そうか、と思う。
笑ってあげたほうがよかったのか。
先生は冷たいですよう、と和寅さんは云うけれど。
なんだか、複雑な気分になった。
「いただきます」
美由紀ちゃんはもぐもぐとバナナを食べている。
榎木津さんの目が優しく笑んで、痛みを堪えた子供を称えるように美由紀ちゃんの頭を撫でた。
２０．ライバル
「女学生君」
石榴と遊んでいると、いつの間にか目を覚ました探偵が座卓に頬杖をついて猫を見ていた。
「僕も遊びたい」
私は笑って「どうぞ」と返す。でも、石榴は探偵を一瞥すると、すいと尻尾を一振りして縁側から庭に降りてしまった。
「ナア」
ついて来い、と振り返って石榴が鳴くので、私は縁側から腰を上げた。
「探偵さんも行きますか？」
「行かない」
探偵は拗ねた子供のように顔を背けた。
「女学生君」
膝の上で丸くなった石榴を撫でていると、手洗いから戻った探偵がじっと猫を見下ろした。
「僕も膝枕したい」
私は笑って「どうぞ」と返す。でも、石榴は探偵の手が伸びるとシャーと威嚇してその手を弾いた。
憮然となった探偵に、私は苦笑した。
「探偵さんを振る女性なんて、きっと石榴だけですね」
「だ、そうだよ。よかったじゃないか、榎さん」
にやにやと古書肆が笑う。
探偵は唸り、
「飼い主のお前がなんとかしろ！」
噛み付くように叫んだ。
了
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