京極100のお題（榎木津×美由紀）
４６．刑事
神田の駅前にある交差点。
信号が青に変わり、交差点を渡ろうと足を踏み出してすぐ、
「おい待て――」
背後から肩を掴まれて引き戻された。
ドン、と背中が人に当たり、目の前を信号無視の軽トラックが走り抜ける。
私の背後にいる男が軽トラに向かって「馬鹿野郎！」とドスの聞いた声で怒鳴った。
「ったく、危ねぇな」
その声に私は顔を上げた。後頭部が厚い胸板にぶつかって、四角い顎が見える。
「刑事さん――」
「おう」
私を見下ろした木場刑事は、肩から手を離した。
「気をつけろ」
「は、はい」
まだ心臓がドキドキしている。
向き直って礼を云うと、刑事は厳つい顔をさらに憮然とさせて私を見下ろした。知らぬ者が見たら震え上がるような顔つきで、知り合いの刑事は「信号が変わったからっていきなり歩き出すんじゃねえ」と云った。
ぶっきらぼうだが、真面目な口調。
「ちゃんと左右を見ろ」
「はい」
「右、左、さらに右だ。指差呼哨」
「はい」
「ここと千葉の田舎と一緒にするんじゃねえぞ」
「はいっ」
私が背筋を伸ばして答えると、刑事は大きな手を私の頭に当ててくしゃりと撫でた。
「いい返事だな」
くっ、と笑う。
その笑みに私の緊張も解けて、微笑み返したときだった。
ひょい、と。
私の身体が宙に浮かんだ。
「うわ！」
誰かが背後から腿と脚を抱き上げたのだ。驚いたように目を見張る刑事よりも視線が高くなる。
私の叫び声に周囲の視線が集まってしまう。
それが誰かを確認するまでもない。そんなことをする人間を私はひとりしか知らず。
「探偵さん！」
巌のような刑事と、女学生と、美形の探偵。なんとも奇異な三人組に周囲の人々は興味津々だ。
私はまるで子供みたいに抱えられていて、慌てて探偵の髪を掴んだ。
探偵は走ってきたのか呼吸が荒い。
「探偵さん、降ろして」
云えば探偵は素直に降ろしてくれたが、彼の顔を見る間もなく頭を抱きかかえられてしまう。
探偵の胸に顔を押し付けられて、呼吸すら出来ない。
――何！？
離して、と暴れたいところだが、あまり騒いでこれ以上注目を浴びたくない。
探偵の呼吸は荒く、鼓動は驚くほど早い。
もしかして、探偵事務所から走ってきたんだろうか――。
「お前な」
呆れたように溜め息を漏らしたのは木場刑事だ。
「場所を考えろよ。――窒息するぞ」
刑事の言葉に、頭を抱く腕が緩んで、私は大きく息を吐いた。
「探偵さん」
それでもまだ肩を抱かれている。
「どこから走ってきたんですか」
「……った」
「え？」
「心臓が止まるかと思った」
ぎゅ、と私の肩を抱く腕に力が入る。
「轢かれたかと――」
「――」
ああ――。
泣きそうな顔。
「見たんですか」
私が車に轢かれそうになったのを。
信号待ちの対向に探偵がいたのなら、私が歩き出したのも、そこに信号無視の軽トラが近づくのも見えただろう。
あのとき木場刑事が引き寄せてくれなかったら、私は彼の目の前で事故にあっていたかもしれないのだ。
探偵は私のおでこに右手を当てて、前髪を二度かきあげ、頬に手を添えた。
「よかった……」
呟き、触れる手がかすかに震えていた。心臓の高鳴る鼓動が、そのまま伝わってくる。
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
――どうしよう。
こんなに心配させてしまったんだ。
「ごめんなさい……」
私が謝ると、探偵は呼吸を整えるように息を吐いた。
「いきなり飛び出すんじゃない」
「はい」
「右を見て左を見て、また右を見て、車が来ていないのを確認してから渡る」
「……」
「返事」
「……はい」
「田舎とは違うのだから、もっと注意しなさい」
探偵は刑事と同じことを云う。淡い瞳が云いようのない光を浮かべていて。
「はい……」
私は探偵の裾を掴んだ。
「まったく……」
探偵は私の髪に顔を埋めると、大きく息を吐いた。
「驚かせるな」
頭の上に口付けられているのがわかって慌てていると、
「いい加減にしておけよ、馬鹿探偵」
木場刑事が探偵の腕を解いて私を解放する。さっきみたいに肩を掴まれて引き寄せられた。
探偵はたちまち不機嫌そうな顔で子供みたいに膨れた。
「女学生君は僕のだぞ」
「うるせえ、場所考えろ」
渋い顔をして、今にもここから立ち去りたいような顔をした刑事は、私の頭にも軽く拳を落とした。
「馬鹿を甘やかすと始末に終えねぇぞ」
「うるさい。行くぞ、女学生君！」
探偵は私の手を握ると刑事を置いて歩き出してしまう。
「あ、ちょっと、――刑事さん」
私は振り返って「ありがとうございました！」と再度礼を云った。
木場刑事は、フ、と笑うように口角を上げた。
「同じことを二度も云われたんだ。ちゃんと気をつけろよ」
「――はい！」
私は笑い返して頭を下げた。
４７．がつがつ
なんだか犬みたい……。
京極堂の座敷で、がつがつという擬音をそのまま音にしたような勢いで鳥口さんがご飯を食べている。食べている……というか、かっ込んでいる？
なんだかお腹を空かせた犬が出されたご飯を食べているみたいで微笑ましい。
隣では古書肆が黙々と食べているからなんとも対照的だ。
そんなに腹ペコだったのかな、と鳥口さんを凝視していると、くすりと千鶴子さんが笑った。
いつもこうなのよ、と千鶴子さんは笑う。
「そうなんですか……？」
「ええ。戦場なの」
確かに古書肆も黙々と食べてはいるが、口の動きも、箸の動きも早い。
出してあったおかずがどんどんと無くなっていく。
遠慮しないで食べてね、と千鶴子さんが云ったとたん、鳥口さんは恐縮気味に身体を縮めて空になった茶碗を差し出した。
「うへえ。おかわりさせていただきます」
私は笑って茶碗を受け取った。これで三杯目だ。やっぱり身体が大きくて動き回るから、それなりに燃料が必要なのかもしれない。
ご飯を盛った茶碗を受け取ると、鳥口さんは小首をかしげた。
「美由紀さんは食べないんですかい？」
給仕だけしている私を不思議そうに見る。
「食べますよ」
私はにっこりと笑うと、お茶を注いで古書肆の前に差し出した。
「このあと、お腹を空かせた神様が来るんです」
ええっ！ と驚いた鳥口さんは古書肆に視線を向ける。
「先に食べてもよかったんで？」
「いいわけがないだろう。あとでうるさいから覚悟しておくのだな」
「そ、そんなあ、師匠だって一緒に食べたじゃないですか」
「君の腹が盛大な太鼓を叩いて急かすからだ」
「うへえ。こちらへ来たとたんに美味しそうな匂いがするのに我慢しろなんて殺生な。――あ！ ど、どれが美由紀さんの作ったやつですか。それだけでも残しておかないと大将に殺されます」
鳥口さんの慌てように、私と千鶴子さんは吹き出してしまう。
「その空になったお皿です」
「ひええ！」
帰ります、と立ち上がりかけた彼の裾を千鶴子さんが笑いながら掴んだ。
「大丈夫よ。ちゃんと榎木津さんの分は残してあるから」
「ほ、本当ですかい？」
泣きそうな顔で私を見る。
「はい」
笑いを堪えながらうなずくと、鳥口さんは腰が抜けたように脱力した。
「ひ――ひどいです、脅かさないでくださいよう」
「私が作ったの、美味しかったですか？」
「そりゃもう」
「よかった」
私が笑うのと、
「ごはーん！」
と玄関で叫ぶ声が聞こえたのは同時で。
鳥口さんに視線を向けると、茶碗を持ったまま硬直しているので、思わず笑ってしまった。
４８．習慣
「あ」
停車場に降り立って、私は瞬いた。
しまった、と振り返った時には笛が鳴って、プシュウ……と列車の扉は閉まってしまう。
「……あぁ」
ガクリと肩の力が抜けた。
新宿まで行く用事があったのに、無意識のうちに神田で降りてしまったのだ。
実を云うと、こんなことは特に珍しいことではなく――。
私は息を吐いた。
特に急ぎの用ではないから焦る必要はないのだけれど。
次の電車を待とう、と日陰になっている長椅子に向かった。電車が来たばかりなので停車場で椅子に座っているのは私だけだ。
鞄の中から文庫を取り出して読み始める。――が、しばらくしてふと気づくと目の前に男の人が立っていたのだった。椅子は空いているのだから座れば良いのにと思いつつ、日本人離れした長い脚にまさか――と視線を上げれば、
「――！」
「やっと気づいたな！」
日本人離れした容貌の男が楽しそうに笑った。
「探偵さん……！」
慌てて立とうとすると、手を上げて制止されてしまう。座っていなさい、と。私は脱力するように腰を下ろして破顔した。
「驚いたぁ」
思わず吹き出すように笑ってしまう。
まさか会えるなんて。
栞を挟んで文庫を鞄にしまうと、探偵を見上げた。
「中野に行くんですか？」
「うん」
探偵は私の前に立ったまま、優しい目をしながらもまだ可笑しそうにしている。きっと、私がいつ気づくのか楽しんでいたに違いない。
――いったい、いつからいたのだろう。
本に集中していて、まったく気づかなかった。だって、彼がこんなところに現れるとは思ってもいないのだから。
探偵は右足に体重を移動させると、首をかしげた。
「君はどうしたのだ。京極のところか？」
「いえ、私は新宿に行くんですけど…………」
「うん？」
恥ずかしくて、彼から視線を外すと消えるような声で呟いた。
「反射的に降りてしまいました」
「……」
しばしの沈黙。
やがて、くつくつと喉を鳴らすような笑い声がして、頭をくしゃりと撫でられた。
４９．きょうだい
「探偵さんのお兄さんって、やっぱり探偵さんに似ているんですか？」
京極堂からの帰り道、隣を歩く呉美由紀が無邪気に聞いてきた。
僕はまじまじと彼女を見つめて
「女学生君は僕のだよ」
と云った。
「……は？」
「だから、きみは僕のだから、兄貴には渡さない」
「……」
美由紀は困惑した表情で、自分は何か違う質問をしてしまったのだろか？ と首をかしげるような仕草をした。
「あの、別にお兄さんに興味があるわけじゃなくて……」
「じゃあなに」
「お兄さんやお姉さんがいるのっていいなって……」
中禅寺兄妹や義姉と妹の関係を見ていたらとても羨ましくなってしまったのだと彼女は云う。
「じゃあ、僕が君のお兄さんになってあげよう」
美由紀は驚いたように目を開いた。
「探偵さんが、ですか」
「そうだとも。僕も可愛い妹が欲しかったのだ」
兄妹はまず手をつなぐ、と云って美由紀の手を取った。
それから、子供の頃の木場修と妹を思い浮かべた。
「一緒にお風呂も入るぞ！」
「ええ！？」
美由紀は僕の手を振り払おうとぶんぶんと振るが、絶対に離すものか。
「なに云っているんですか。それは子供の頃の話でしょう！」
「ああ――」
それよりも。
「もっと良いことを思いついた」
「…………な、なんですか」
美由紀は警戒心丸出しで、とても嫌そうな顔をしている。
僕はにっこりと笑った。
「僕と結婚したら、義兄さんができるじゃないか！」
５０．鬱
「おい、マストラ」
探偵の呼びかけに、益田さんと和寅さんが二人してうんざりした表情で肩を落とした。
「先生」
「榎木津さん」
「私たちを」
「僕たちを」
「「まとめて呼ぶの、やめてくださいよう」」
二人の声がそろって、私は笑ってしまう。
美由紀ちゃん、と益田さんから責められるように見られて、私は慌てて口を押さえた。
「すみません」
「いいけどね……」
ああもう、鬱だ……益田さんの言葉に、私は本当に申し訳なくて頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
そもそも、最初に「マストラ」と口にしたのは私なのだ。
益田さんと和寅さんを呼ぼうとして混ざってしまったのだが、それを聞いていた探偵が二人を一度に呼ぶのにちょうど良いと気に入ってしまったのだった。
二人ともぶつぶつと云いながら探偵の指示に従って動いている。
探偵は私と視線が合うと、湯飲みを前に出した。
「女学生君、お茶」
「はい」
私は笑って立ち上がった。
ごめんなさい、の意味も込めて、益田さんたちには美味しいお茶を入れてあげよう――。
了
【京極100のお題 041〜050】
46：2008.02.25
47：2007.11.20
48：2007.09.18
49：2007.08.12
50：2008.03.25
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