京極100のお題（榎木津×美由紀）
６６．陰
おいで、と探偵が云う。
その言葉が私は好きだ。
差し伸べられる大きな手。
私の行動を促す行為。
いつだって急かすことなく待ってくれるのが嬉しかった。
手を重ねれば、力強く――でも、優しく握り返して、顔全体で笑ったり、大人が子供を見守るように微笑む探偵がいる。
その手を掴めば、あとは強引に連れまわされるのだけれど。
見えない何かに縛られ絡み硬くなった心が溶かされていくのが分かる。
緊張も、戸惑いも、ためらいも次第に薄れて。
これほど安心できる場所を私は知らない。
私に気づくと、探偵は手を伸ばした。
「おいで」
真っ直ぐに、私だけに向けられる言葉。
猫を呼ぶみたい、と近頃思う。でも、その言葉が私は好きだ。
嬉しくて、愛しくて、幸せで。
温かくなる。
隣においで、と云ってくれる彼に、心から笑って歩を進める。
まっすぐに手を伸ばして。
――光の元へ。
６７．学生
栗色の髪が陽光に輝く。
あまりにも長身なために、校門から後頭部が飛び出していた。
女学校の正門に、男性が寄りかかっているのだ。
しかも、恐ろしく美形な男が。
彼に気づいた女生徒たちがきゃああと嬌声を上げ、照れたように逃げ去っていく。
――探偵さん。
こんなところで何をやっているんだと呆れながら、嬉しくなっている自分に気づいた。
ここは見知らぬ町角じゃない。自惚れではなく、彼が待っているのは私以外にありえない。
トクトクトク、と心臓が高鳴っていく。
探偵さん、と小さく呟いただけなのに、パッと振り返った顔が子供みたいな満面の笑みに変わった。
「女学生君！」
真っ直ぐに、私だけを見る瞳。
思わず顔に血が上ってうつむいた。
うわ。どうしよう。
嬉しくてたまらない。
自分だけが特別なのだと――勘違いしそうになる。いま、たくさんいる女学生の中で、彼が云う「女学生」は私ひとりだけなのだ。
「探偵さん」
私が駆け寄ると、探偵は笑顔で元気に挨拶をしてくる。散髪に行ってきたのか、短くなった髪が珍しい。
「髪、切ったんですね」
「うん」
ニコニコと探偵は笑う。
手の伸ばして髪に触りたくなるけど我慢我慢。
周囲の学生たちの視線が興味津々といった様子で突き刺さってくる。
こういうときは、下手に騒がず、冷静に。
私はわざと呆れたような息を吐いた。
「こんなところにいたら、通報されますよ」
「大丈夫」
にこやかに目を細める探偵を私は睨んだ。
「大丈夫じゃありません」
キッと見上げるが、厳しい顔も長くは持たず、ふ、と笑みを漏らしてしまった。
「今日はどうしたんですか？」
探偵は嬉しそうに笑った。
「髪を切ったから、真っ先に君へ見せようと思ったのだ」
「――」
「今週は来ないと和寅に云っていただろう？」
探偵は口角を上げると、
「寮まで送る」
私の肘をそっと押して歩き出した。
私の歩調に合わせて、ゆっくりと歩く長い脚。今は生徒たちがいるから探偵も無理やり手をつないで来たりはしない。
――が、手持ち無沙汰な感じがしてしまうのはどういうことだろう。
私の中で、探偵と手をつないで歩くことがいつの間にか当たり前のようになってしまったなんて。
なんだか可笑しくて笑ってしまう。
探偵が振り返るので小さく笑って首を横に振った。
探偵は不思議そうに首を傾げるが、私がもう一度首を横に振ると、なんでもないのだと判断したのか、再び前を向いて歩き出した。
トクトクトク。
胸が高鳴る。
私は探偵の短くなった髪を見上げ、秀麗な横顔から視線を外した。
トクトクトク。
胸が温かい。
すごく似合います。
とても素敵です。
口には出来ない言葉がたくさんある。
会えて嬉しいです。
探偵さん探偵さん。
――髪、触りたいな。
――手、握りたいな。
――腕、添いたいな。
胸の高鳴りを押さえるように、私は鞄を両手で抱えた。
６８．小悪魔
腕を組んで眠っていると、
「探偵さん」
と囁くように声をかけられた。
目を開けると、ソファーの背もたれに肘をかけて呉美由紀が僕の顔をじっと見ている。
「眠たいならベッドで寝た方がいいですよ？」
「宿題は終わったのか」
「はい」
「じゃあ遊ぼう」
僕がにこりと笑うと、美由紀は苦笑した。子供みたい、と声にはしないが彼女が思っていることが分かる。
「仕事はしないんですか」
「君と遊ぶのが仕事なのだ」
「そんな仕事は聞いたことがありません」
美由紀はしょうがないな、というように笑った。ソファーから立ち上がり、僕の方へと近づいてくる。
「じゃあ、一緒に鳥を探しましょう」
「そうやって僕に仕事をさせようとしても無駄だぞ」
亀探しをして以降、動物探しの依頼が絶えない。大抵は断るが、することがないと和寅がすぐに依頼を受けてしまうのだ。今朝も逃げた鳥の捜索依頼があって、益田は朝から出かけている。
美由紀は机を回って僕の前に立つと、ふと小首をかしげ、身を屈めると僕の顔をじっと見た。
ずいぶんと積極的だな、と思っていると、
「探偵さん、目を瞑ってください」
と真面目な顔で云ってくる。
思わず瞬いてしまった。
「なんだ、チュウでもするのか？」
美由紀は目を見開き、破顔すると「違います」と云った。
「いいからはやく、目を瞑ってください」
とりあえず目を瞑ってみると、美由紀の顔が近づいてくるのが分かった。
顔に影が出来て、彼女の指が前髪をかきわける。
ふわりと甘い匂い。
左の瞼に、親指がそっと触れて――――。
唇に…………。
触れる前に彼女が離れた。
「はい、取れました」
パチ、と目を開けると、身を起こした美由紀が嬉しそうに笑っている。
「これ」
親指の先から、白い紙のようなものがヒラヒラと落ちた。
「まぶたに付いていたので気になって」
「……それだけ？」
「それだけです。他に何か？」
さらりと口にする。
僕は思わず口をへの字にしてしまった。勘違いした自分が馬鹿みたいじゃないか。
「今度は君が目を瞑りなさい」
美由紀はにっこりと笑って一歩下がった。僕が手を伸ばすとさらに一歩下がる。
「女学生君……！」
美由紀はその場で膝を折ると、自分の口を手で覆い、僕を見上げて無邪気に笑った。
「キス――、されると思いました？」
本当に。
憎たらしいほど可愛いね、君は。
６９．痛み
「痛ッ」
榎木津ビルヂングの階段を登っていると、チク、と左目に痛みが走り、私は目を瞑った。
刺さるような痛み。
「うわ」
逆さ睫毛か、それとも砂か埃でも入ったのか。うっすらと目を開けようとするが、痛くて開けられない。
鏡、鏡、と鞄を開けてポーチの中から手鏡を取り出そうとするが、こういうときに限って見つからない。あった、と思ったときにはポーチごと落として、中身をぶちまけてしまった。最悪だ。
階段を転がっていくリップや櫛の音に重なって、上階から事務所の扉が開く音がした。
カラン、と鐘が鳴って、足音が近づいてくる。
「女学生君」
頭上から声を掛けられ、私は左目を覆ったまま顔を上げた。姿は見えなくても誰かはすぐに分かる。
「探偵さん」
「どうした」
「目にゴミが」
探偵は軽快に降りてくると、どれ、と云って私の頬を両手で挟んだ。
「見せて」
「や――、いいです――」
痛みに歪んだ顔を見せるのが恥ずかしくて断ると、探偵は再度急かした。
「いいから、見せなさい」
「そのうち涙で流れます」
「いいから、云うことを聞きなさい」
いや、と私が繰り返すと、見せたらご褒美をあげるから、と探偵が云うので可笑しくなってしまった。
「なんですか、ご褒美って」
私が笑うと探偵も笑う。
「ほら、早く」
探偵は譲りそうにない。終いには「美由紀」――と怒ったように名前を呼ばれてしまう。
彼に名前を呼ばれると弱い。
きっと、探偵もそれを分かっていて使い分けているのだろうけど、私は大きく息を吐くと、恐る恐る顔から手を下ろして彼の胸元を掴んだ。
探偵は私の顔を優しく掴むと親指で下瞼を開いた。怖くて顔が歪むのを抑えられない。でも、探偵はそのことを笑うことなく、あった、とあっさりと口にした。
「石ですか？ 埃？」
「虫」
「え」
「待ちなさい」
探偵は身を屈めて何かを拾う。音からティッシュを取り出したのだと分かったが、しばらく間が開き――おそらく先を丸めているのだろう――もう一度顔を掴まれた。
怖がる私に、探偵は大丈夫と優しく囁き、下瞼を開いた。
緊張して硬くなっていると、ティッシュの先が目に触れたのが分かって息を飲む。
軽く擦るような、それはほんの一瞬。
探偵の手が顔から離れた時には痛みがなくなっていた。
「いいよ」
ふう、と緊張していた身体から力が抜けた。目は乾燥した感じが残っているが、異物感はまったくない。目をぱちぱちと瞬き、問題がないことを確認すると、大きく息を吐いた。
探偵を見て破顔する。
「ありがとうございます」
「うん」
探偵は口角を上げると、軽く身を屈めて私の額に口づけた。
「――」
思わず硬直していると、探偵はニコッと無邪気に笑った。
「がんばった女学生君にご褒美」
私は探偵から一歩離れて、額を押さえた。
「なんでご褒美――」
「不満？ じゃあ、口に」
「――！！！」
慌てて逃げるように飛び退けた。
「今ので良いです、十分です」
「……」
探偵はじっと私を見つめると微苦笑を漏らして肩をすくめた。
「そんなに逃げられると僕でも傷つく」
「ぁ――」
「まあいい」
探偵は腕を伸ばして私の二の腕を掴んで引き寄せた。
「――！」
慌てて目を瞑ると、探偵は私の瞼の上に口づけた。
「僕へのご褒美ということにしよう」
「な――！」
「取ってあげたご褒美」
にっこりと笑う探偵に私は怒ることも出来ず、しかも唇に来る――と身構えた自分が恥ずかしくて耳まで真っ赤になってしまった。
「ご……、ご褒美は終了です」
もごもごと、かろうじて言葉を紡ぐが、顔はますます熱くなるばかりで。
探偵は私を見てニヤリと笑うと、
「もっと欲しそうな顔をしているな！」
楽しそうに叫んだ。
７０．かま
「あら、いらっしゃ〜い！ 薔薇十字探偵社へようこそ〜！」
両手を広げ、にこやかな笑みとともに出迎えてくれた人物に、私はきょとんと瞬いた。
年齢は五十歳前後の男性だ。短い髪には白髪が混じり、無精ひげにも白髪がある。初めて見る人だったが、まるでここが自分の店であるかのような歓迎ムードだった。
新しい人を雇ったのだろうか。
「あ、あの、お邪魔します」
私が丁寧にお辞儀をすると、その人は「きゃあ」と跳ねるように云った。
「可愛い依頼人ね。寅吉ちゃーん、お客様よ〜」
台所に向かって声をかけると、バタン！ と大きな音がして、風呂場から和寅さんが飛び出してきた。掃除をしていたのか、タワシを持っている。
「ああ！ 美由紀さんでしたか！」
「こんにちは」
私はホッとして笑った。
和寅さんは首にかけていたタオルで顔の汗を拭いた。
「先生はちょっと出かけていていないんですよう。すぐに帰ると思うんで、待っていてもらってもいいですかね」
「はい」
「それからこの人は――」
和寅さんは最初に出迎えてくれた人物へと顔を向けた。
「気にしないでいいですから」
「ちょっとぉ！ 寅吉ちゃん！ ちゃんと紹介してッ！」
バシ、と持っていた扇で和寅さんを叩く。
見かけは明らかに男性なのだが、袖や襟にレースがついた花柄の開襟を着て、口調や仕草が女性っぽい。
探偵の知り合いには面白い人が多い。なんだか微笑ましくて、小さく笑ってしまった。
「はじめまして、呉美由紀です」
「はじめまして。あたしは金ちゃんよ」
「金さん」
「だめだめ！ そんな男っぽいの！ ぜんっぜん可愛くないわ。金ちゃんって呼んで！」
身体を左右に揺らして命令されたが、どう見ても年上の人にちゃん付けはためらわれる。
「金ちゃんさん」
「金ちゃんさん！？」
きゃはは、と彼は笑った。明るい裏声。
「なんで、ちゃんにさんをつけるの。金ちゃんでいいのよう。ほら、呼んで、金ちゃんって」
「え、でも」
じいっと見つめられて、さあ云いなさいと無言で責められる。仕方なく、私は彼が望む言葉を口にした。
「金ちゃん……」
「そう！」
ニコッと笑った金さんは、よく出来ましたと云うように私の頭をくしゃりと撫でた。くしゃくしゃくしゃ。されるがままになっていると、金さんは手を離して、なんだか不思議そうな表情をして私の顔を覗き込んできた。
じいい、と何か云いたげに見つめられて、私は怯んだ。
「あの？」
まだ何かあるのだろうか。ドキドキしていると、
「嫌がらないのねえ」
とつぶやかれた。
「え？」
何が。
ああ、もしかして、頭を撫でたことだろうか。
人によっては髪に触れられるのを嫌がる人もいるらしいし、これが普通の男の人だったら私も避けただろう。でも、なぜか金さんは異性というより同性に近い感じがして、不思議と怖いとは思わなかったのだ。
「別に……」
私は。
「オカマは嫌じゃない？」
「え？」
おかま？
なにそれ。
きょとんとしていると、金さんは驚いたように瞬いた。
「ちょっと寅吉ちゃん、この子、どこのお嬢様よ」
呆れたような物言い。私は無知を笑われたような気がして紅潮した。
「すみません」
恥ずかしくてうつむくと、金さんが慌てたように手首を振った。
「違うの、そういう意味じゃないのよう。お嬢様って、良い意味よ、良い意味でね」
ヒッヒ、と和寅さんが笑った。
「美由紀さんは千葉県の端でお育ちですからね。オカマに免疫がないんですよう。陰間、って云ってもわからないでしょう」
こくん、と私がうなずくと、金さんはニッコリと笑って私の腕に自分の腕を通して女友達のように寄り添った。
「この子、気に入ったわ。これでもあたし、人を見る目だけはあるの」
「後で先生に殴られますぜ。ボコボコでグチャグチャですよう」
「これでもあたし依頼人よッ！」
金さんの悲鳴に、和寅さんはニヤリと口角を上げた。
「美由紀さんは先生のいい人ですからね」
「探偵ちゃんの婚約者！？」
「違いますッ！」
私が真っ赤になって叫ぶのと、事務所のドアが開くのは同時だった。
「そうだともッ！」
叫んだ探偵は、つかつかと歩いてくると金さんの頭をぐいと押しのけ、さらに腹を蹴り飛ばすと、私を抱き寄せてうわはははと笑った。
了
【京極100のお題 061〜070】
66：2008.06.07
67：2008.06.28
68：2007.10.07
69：2008.02.22
70：2008.08.27
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