京極100のお題（榎木津×美由紀）
７１．接吻
「ふいい〜」
三階まで上がっていくのは結構大変だ。最後の一段をよいしょとつぶやいて登ると、「薔薇十字探偵社」と書かれたドアを開ける。
「ただいま帰りましたー！」
カランカランと鐘が鳴る。
土曜日の午後。
調査を終えて事務所に帰ってくると、いつもなら明るく迎えてくれる少女の姿がソファーなかった。
「あれ？」
彼女の笑顔が楽しみだっただけに、なんだあ、とガックリ肩を落としていると、台所からひょっこりと顔を出したのは秘書兼給仕の青年だった。
「おや、早いじゃないか。ちゃんと調査はしてきたんだろうね」
「もちろんですとも。美由紀ちゃん、帰っちゃったんですか？」
今日は来なかったのか、それとも榎木津さんと一緒に出かけたのだろうか。
「まだいるよ」
和寅さんは、寝室を見る。
「先生を起こしに行ったんだけどね」
「まだ起きてないの？」
「一度は起きたようだがね」
和寅さんは肩をすくめた。
ははあ、と僕は了解した。
起こしに行ったきり、出てこないのか。
要するに、子羊は神様に捕まってしまったらしい。
それはなんとも確認しにくい事態だ。
さすがに無体なことはされていないだろうけれど――。
さてどうしたのものかと悩んでいると、バタンと大きな音を立てて寝室のドアが開いた。
「美由紀ちゃん」
僕を見た彼女は、口を覆う。
「益田さん……！ お、お帰りなさい」
美由紀ちゃんの頬が赤い。
「うんただいまー。榎木津さん、起きた？」
「は、はい」
「大変だったでしょ」
「つい、一緒に寝ちゃって」
「え！」
「え？」
美由紀ちゃんはきょとんとしてから、自分が発言した言葉の意味に気づいたのだろう。ボッと真っ赤になった。
「や！ ちがいます！ 探偵さんがなかなか起きないから読書していたら、そのままうたた寝しちゃって」
もしかして、僕が帰ってきた音で眼が覚めたのだろうか。
それだけの割には、なんだか慌てようが普通じゃない。
「榎木津さんに何か――」
されたの？
「ち、ちが――」
違うんですと何度も首を振るが、何が起こったのかは一目瞭然だ。首筋の赤いの、それ何――！？ 思わず視線がそこに釘付けになると、美由紀ちゃんは何かを察したのか慌てたようにその場所を手で隠した。
かああ、と耳まで顔が赤くなる。
「その――、鼠がいて」
「鼠！？」
「はい――」
「そうなんだ……鼠に噛まれ……」
って、いや、いやいや。
「……鼠はどうしたの？」
「え？ あ、あの……」
恥ずかしそうに彼女は呟く。
「退治しました……」
「退治！？ そ……そう、それはよかった、ね」
シン、と静まり、僕は首をかしげた。
「……大きな鼠だった？」
彼女はさらに頬を染めると、コクンとうなずいた。
チュウチュウと、いつもうるさい鼠が探偵社には一匹。
７２．撮りますよー。
探偵と散歩の途中、公園でカメラを構える知り合いの青年を見つけたのは、夏も終わりに近づく日曜日だった。
季節としてはすでに秋だったが、トンボの数より蝉のほうがまだ多い。
カメラを構えたレンズの先には小さな子供をつれた母親や散歩中の老人がいて、さらに鳥や犬、樹木や空など、目に付いたものを無差別に撮っている。
仕事中なのか、それとも趣味なのか。声をかけるのをはばかっていると、探偵が芝生に入り、無遠慮に呼びかけようとするのであわてて止めた。
だが、視線に気づいたのかフ――と振り返った青年は、カメラを構えてカシャ、と一枚。
「大将、デートですかい」
と笑った。
「そうだよ」
あっさりと云った探偵は、私の手を取ると、鳥口さんへと近づいていく。
「鳥ちゃんはカメラとデートか」
へへへ、と鳥口さんは照れ笑った。
「新しい恋人ですよう」
本当に嬉しそうな姿に、思わず笑みが漏れる。
「今日はお仕事ですか？」
「違います違います」
新しいカメラを買ったので試し撮りをしている、と彼は笑った。
ふうん、と探偵は呟いた。
「いつもそういうのを撮ればいいのに」
そういうの――、と探偵は云った。鳥口さんが常に取り扱う仕事は事件や事故、猟奇的な物が多く、つまり、探偵の目にもそれは視えてしまう。
でも、さっきみたいにカメラに映していた景色は、心優しくまっすぐな青年の心を映すようにとても優しいのだろう。
人の目で見た景色と、カメラを通して見る景色はどう違うのだろう――。
そう思っていたところだったから、私を見た鳥口さんがニコッと笑った時にはドキリとした。
雑誌記者で編集者でもある青年は、人懐っこい笑みを浮かべて手元のカメラを持ち上げた。
「覗いてみる？」
思わずうなずくと、鳥口さんは指先でちょいちょいと手招いた。
「いいんですか？」
「いいよ。カメラ、見たことがないでしょう」
「はい」
鳥口さんはカメラについている紐を私の首にかけ、持ち方やレンズの見方などを教えてくれる。
「拡大したいときはこう、縮小したいときはこうね」
「はい」
手、疲れない？ と聞かれたので笑う。
「けっこう重いんですね」
おそらく一分くらいしか経っていないのに、腕が疲れてきている。でも、それすら気にならないほど、私は限られた視界の中に映りこんでくる景色に夢中になってしまった。
右を見て、左を見て、天を見て、地を見て。
振り返り、探偵を映した。
――あ。
ドキ、と胸が高鳴った。
小さな視界の中に、私を見て笑う男が映っている。思わず人差し指が動いて、カシャ――という音がした。
「あ！ すみません！」
慌てて鳥口さんに謝ると、彼はいいよ、と楽しそうに笑った。
心臓は、まだ高鳴ったままだ。
笑い含みで鳥口さんがささやいた。
「すごい誘惑でしょう」
私はカメラを鳥口さんに返して、小さくうなずいた。きっと顔は真っ赤だ。
私は、いつもあんな顔で探偵に見られているのか――。
今まで、何で平気でいられたのか、自分でも不思議だった。
「なんだ、もういいのか？」
探偵が手を伸ばしてくる。探偵は、反応の鈍い私に首をかしげて、どうした？ と笑った。
７３．傘
「プールに行こう！」
「行きません」
「じゃあ、海」
「行きません」
「じゃあ、いつ行くの」
「だから、行きませんって」
探偵には、この真っ黒に日に焼けた顔が目に入らないのだろうか。今の状態でさえ学校に行けば田舎娘丸出しで浮くに違いないのに。
「じゃあ、いつ着るの」
「――！」
やっぱり、と私は探偵を睨んだ。
「これ以上、日に焼けたくないんです」
「今度、日傘を買ってあげるよ」
探偵はニヤリと笑うと「よし、行くぞ」と勝手に立ち上がった。
「買った水着を僕に見せないでどうするのだッ！」
７４．花
宿題を終えて一息つくと、お疲れ様という声とともに右手を差し出したのは益田さんだった。
「どれどれ、お兄さんが見てあげよう」
ノートを渡すが、探偵助手は答え合わせをするというより、ただ数字を目で追っているだけだ。
長い前髪が目を覆い、口元に浮かぶのは笑み。
たいがい大人は子供の学校のノートを見て懐かしそうな顔をするが、益田さんも例に漏れずどこか楽しげなのは自分が学生だった頃を思い出しているのかもしれない。
――いや、彼の場合、探偵の真似をしているだけか。
今日は実家から呼ばれたらしく、探偵はいない。
私の視線に気づいた益田さんは顔を上げた。
「美由紀ちゃんって字が綺麗だよね」
視線をノートに落とす。
「小さくて可愛いー」
「そうですか？」
文字のサイズ的には普通だと思うが。
「益田さんの字も綺麗じゃないですか。私は読みやすくて好きです」
「ありがとう。でも、男の文字は華がないんだよね、ノートや教科書からして男臭いっていうか……」
益田さんはノートを鼻に近づけると、くんと鼻を鳴らして、カッと細い目を見開いた。
「男臭くないッ」
「男臭かったら困ります」
私が笑うと、益田さんも笑った。
「ノートもわかりやすいし見やすいし、女の子ってみんなこんな感じ？」
「そうですね、……たぶん」
私の場合、見られるのがわかっているから自然と字を綺麗に、そしてわかりやすく書く癖が付いてしまっただけだ。
字の上手い下手はあるだろうけど、誰だって好きな人が後で自分のノートを見るとわかっているのに汚い文字で書こうとは思わないだろう。
でも、それをそのまま言葉にするのはためらいがあったので、別の言葉を探す。
「人に見られていると背筋がのびる……みたいな」
「ああ、うん。――なるほど。人に見られると綺麗になるっていうよね」
益田さんは納得したようにうなずき、眩しそうに目を細めて私を見た。
７５．宴
うわははは、という高笑いとともに掴んだ豆を剛速球で投げつけてくる榎木津の仕打ちに、益田はヒイイと叫びながら逃げまどう。
節分の今日、神が福を招かず、鬼退治に勤しんでいる。
「ちょっとは手加減してくださいよう！」
鬼の面にケラミノ、ハバキを身に付けた益田の姿は秋田県のなまはげそのもの。だが、鬼なのはむしろ榎木津のほうだ。
事務所内には大量の大豆が転がり、窓は開けてあるが、閉じてあるところはガラスを割らないようにカーテンがしてある。
「福を呼び込んでくださいよ！」
益田はキャンと犬のように泣いて叫んだ。
動物愛護週間があるなら、下僕愛護週間も作ってもらいたいと心から思う。
あとで事務所内とビルの外に飛んだ豆の掃除をしなければいけない安和寅吉は、これで先生のストレスが発散されるのであれば、と悟りの表情。
「鬼はー外、福はー内」
呉美由紀の声がして、豆をまきながら事務所内に入ってくる。
「美由紀ちゃん！」
どこにいたの、と益田は美由紀を盾に背後へ隠れた。いつの間にか美由紀がいないと思っていたら、ひとりで榎木津ビルヂング内をくまなく豆まきしてきたらしい。
「まだやっているんですか」
呆れたように美由紀が云い、榎木津は腰に手を当てて元気に叫んだ。
「君もやりたまえ！ すっきりするぞ！」
榎木津は手持ちの豆を使い果たしたらしい。ソファーの上にある豆を散らすと、どっと腰を下ろした。長い足を組み、寅吉に珈琲を頼んでいる。
益田はホッと息を吐いて美由紀から離れた。あまりくっついていると榎木津の視線が怖い。
「美由紀ちゃんもどうぞ。まだ、余っているんでしょう、豆」
こくんとうなずいた美由紀は、じゃ、じゃあと掴んだ豆を益田に投げた。
「鬼はーそと！」
ぱらぱらと鬼の面に豆が当たる。益田は笑った。
「もっと強くても大丈夫だよ」
少量で、加減して豆を投げつけてくる呉美由紀が何ともかわいらしい。しかも、鬼に豆を投げた後はちゃんと内に福を呼び込んでいる。寝室や台所、洗面所とくまなく豆をまいているあたりが真面目だ。
益田はニヤリと笑うと、両手を広げて小走りで美由紀に近づいた。
「泣ぐコはいねがー！」
「え！ うわ！」
驚いた美由紀が後退って転びそうになる。
「益田さん！？」
「ケケケケケ」
「ちょ…」
追いかけてくる益田に美由紀は慌てて事務所内を逃げ始めた。
「いや！」
「泣ぐコはいねがー！ へっへっへへっへ」
なんとも変態じみたなまはげだ。
榎木津と寅吉は大笑い。
「女学生君、豆を投げろ！」
は、と気づいたらしい美由紀が、先ほどとは違った勢いで袋の中の豆を益田に投げつけてきた。
「鬼は外！ 鬼は外！！」
「痛っ」
「鬼は外！！！」
益田は痛みに何度も身体をすくめつつ、低く唸りながら、
「喰っでやる〜！」
ぐわばっと美由紀に襲いかかった。
「よく生きていたな」
中禅寺が呆れたように云い、益田は楽しそうに笑う。
「まあ、抱きつく寸前でやめましたからね」
だが、「鬼は外！」と真剣に豆を投げる少女と、楽しそうに美由紀を追ったり逃げたりする益田を見ていたら榎木津の機嫌が悪くなってしまったのだ。
ははあ、と中禅寺はつぶやいた。探偵の目には海辺で「うふふ〜あはは〜」と追いかけっこをする恋人の情景に見えたのだろう。
「それで榎木津が鬼をやると云いだしたのか」
豆をまくからみんなを集めろと、薔薇十字探偵事務所から京極堂へと電話があったのは一時間ほど前だった。関口夫婦と、ちょうど関口のところにいた鳥口守彦に声をかけ、ちょうど訪れていた敦子を含めれば総勢六名、それに榎木津と呉美由紀と益田が加われば十分な人数だ。
現在、女性陣は台所で豆まきの用意をし、榎木津は関口に手伝わせて鬼の姿になっている。
「鬼になったら美由紀ちゃんに抱きつき放題ですからね。鬼のほうが楽しいぞ、と榎木津さんに思わせた僕の作戦勝ちですよ」
益田は親指を立ててニヤリと笑う。
中禅寺は首をかしげた。益田は榎木津に豆をぶつけられると喜んでいるが、果たしてそう上手くいくだろうか。
鬼が反撃してはいけない、という法則はない。
どすどすどす、という足音が聞こえてきたかと思えば、襖が左右に開き、
「うわははは！」
なまはげ姿の榎木津が、高笑いをしながら現れた。
「用意はできたぞ！」
「似合っているじゃないか、榎さん」
中禅寺が口角をあげると、当然だと云いたげに榎木津が胸を張った。
「僕はなんでも似合う！」
なまはげの脇から、疲れたよ、と云いながら関口が肩を丸めながら座敷に入ってきた。先生、お疲れ様でした、と鳥口がお茶を入れて差し出す。
榎木津は入り口のところで仁王立ちになったまま、座敷で待機する男たちを見下ろした。上背があり、鬼の面をかぶっているのでかなりの迫力だ。
「それより桃太郎、お前はそのままでいいのか」
「……」
「……」
「……？」
男たちの視線がそれぞれに行きかう。
中禅寺が憮然と眉をひそめた。
「誰が桃太郎ですか」
「お前に決まっている。鳥に猿に犬を連れているじゃないか」
「……なるほど」
中禅寺は鳥口、関口、益田を見て、ふ、と笑い、着替えるよと一言、すっくと立ち上がった。
「だが僕も鬼をしよう」
「わははは、そうしろ！ 鬼太郎だなッ！」
「ええ！？」
残った男たちは一様に驚きの表情だ。最強最悪の組み合わせが鬼になってしまった。
「本気ですか、中禅寺さん！」
「師匠！？」
古書肆はニヤリと笑う。
「なまはげは怠け者や子供、初嫁を探して暴れるものと決まっている。となると、ターゲットは怠け者の関君、子供の敦子に美由紀君、初嫁ではないが千鶴子と雪絵さんだ。しっかり守るんだな」
「守るって、豆で鬼を攻撃するんじゃないんですか？」
「益田君、榎さんが黙ってやられているとでも思うのかね」
そのとウり！ と榎木津が叫んだ。
榎木津に豆を投げれば報復が来て、中禅寺に投げれば呪い返されそうである。豆を投げるのは女性陣に任せて、自分たちは防衛一方になりそうだ、と犬と猿と鳥は覚悟を決める。
中禅寺が鬼のお面を取りに行くのと入れ替えるように、女性陣がやってきた。榎木津を見ると、あら怖い、似合うわ、と歓声をあげた。
榎木津は鬼の面の下で不気味に笑うと、ぼんやりと榎木津を見ていた美由紀を片腕で引き寄せた。
「うわ！」
「女の子たちは捕らえたらチュウだ」
「探偵さん！？」
じたばたと暴れる美由紀の額に、鬼の面をあげた榎木津が口づけた。
「今、さりげなく複数形で云いましたよ」
益田のつっこみに、きゃあ、まあ怖い、逃げなくちゃ、と千鶴子と雪絵に敦子が笑った。
了
【京極100のお題 071〜080】
71：2007.10.10
72：2008.08.21
73：2008.08.03
74：2007.09.01
75：2008.02.03
「京極部屋」に戻る
≪炎帝月帝≫TOP