京極100のお題（榎木津×美由紀）
９６．ほう
人間の好みは、三歳の時に決まってしまうらしい。
どこから仕入れてきたのか、益田さんがそう云うと、突然、探偵がうひゃあと奇声を上げた。
「じゃあ、女学生君は三歳のときに僕と出会っているのだな！」
私は呆れた。いったい、どこからその自信がくるのだろう。
「出会っていたら探偵さんが覚えているでしょう？」
たとえ私が覚えていなくても、彼には私の記憶が見えるのだから。
益田さんが首をかしげた。
「美由紀ちゃんが三歳のときだから、榎木津さんは……二十四？」
うわ、と呟く。
「犯罪……！」
益田さんは飛んできた三角錐をパシリと掴んだ。
「出会っただけで犯罪になるか！ このバカオロカッ」
「主張する前に投げてこないでくださいよ……！」
――出会っただけで。
だが、千葉県の田舎で生まれた私と都会で学生だった彼が出会う可能性はまずない。
その話を京極堂でしていたら、古書肆は少し考えるような顔つきで首をかしげた。
「美由紀君、幼い頃に浅草へ来たことはないかね」
「浅草……？」
いきなりなに、と私が瞬くと、一緒に来ていた益田さんも首をかしげた。
「中禅寺さん、浅草に何かあるんですか」
「榎木津が大学に入学する前に後輩を連れて浅草へ行った事がある。そのときに迷子を見つけて親を探したんだが、確かその子供の名前が……」
ミユキ、と古書肆がよく通る声で云う。
座敷はシーンと静まり、まっさかあ、と益田さんが笑った。
「そんな都合のいいこと、……ないですよ、ねえ？ じゃあ、そのときに美由紀ちゃんは榎木津さんの顔を見たってことッスか」
「それはどうだろう。ずっと泣いていたし、母親が見つかるまで榎木津が肩車をしていたから、あの男の顔は見てはいないだろう」
「中禅寺さんから見てどうなんです？」
「わかるわけがない。二・三歳の子供だぞ。特徴のある黒子があったわけでもない。小さな頃の写真でも見ればわかるかもしれないが」
古書肆の視線が私に向いた。
「美由紀君」
「は、はい！」
「実家に電話をかけてみなさい。十年前の春に、浅草で迷子になったことがあるのか否か――」
「ええ……っ」
「あのときの子供が君だったとしたら、榎木津の顔よりも、言動に免疫がついた可能性のほうが高い」
冗談だろう、と私は思う。だが、益田さんの眼が輝いた。
「うっわ、それってすごいよ美由紀ちゃん、電話してみて！」
そんなことを云いつつ、絶対にありえないという顔だ。私だってそう思う。
思うんだけど――。
それが事実だったと知るのは、三分後。
まあ、覚えているの？ とあっさりと認めた母の声に思わずクラリと目眩がした。
「どうだった！？ 美由紀ちゃん、迷子になってた？」
興味津々の面子に、私は半分涙目で小さく頷いた。
ワッとその場が騒ぐ。
「ぜ……！ 絶対、探偵さんには云わないでください……！」
私が叫んだその声は、隣三軒まで聞こえたという。
９７．キズ
「榎木津さんを足蹴にする女性なんているんですかね」
たまたま口にした益田の言葉に、新聞を読んだままの榎木津があっさりと答えた。
「いるぞ」
「ええ！？」
「昨日、思いっきり蹴られて踏まれた」
「えええええ！？ 誰にですか！」
「昨日、ここへ来た女性は一人だ」
「は！？ え！？」
といわれて浮かぶのはただ一人。
「な、なんで！！？」
予想外の人物に驚いて益田は立ち上がった。
「――美由紀ちゃんに何したんスか！」
「僕は何もしてない！」
「何もしてないのに、蹴られて踏まれるわけないじゃないですか！」
「何もしていなくても、蹴られて踏まれるのだ」
ほら見ろ、と。
榎木津は立ち上がるとシャツの裾をズボンから引き抜いてわき腹を見せた。
「うわ……！」
益田は目を見開いて口を覆った。
榎木津の白い肌に、明らかに蹴られたと思われる痣が青紫色の斑という不気味な色合いで浮かび上がっている。
「で、でも、美由紀ちゃんが……こんなこと……」
「したのだ！ 痛かったぞ！」
「確かに痛そう……ですけど」
なんで彼女が。
益田が言葉に出来ずにいると、榎木津は腹に据えかねる様子で叫んだ。
「僕は傷物にされてしまったのだ！」
「んな大げさな」
あんた、いつも幼なじみと殴り合い蹴り合いの野蛮な挨拶を交わしているじゃないですか。
とは口にはしない。
それに比べたら、そんな痣は猫に横腹を蹴られたようなものだと益田は思う。
榎木津は鼻を鳴らして椅子に座った。
「だから、女学生君には責任を取ってもらう」
「はあ？」
治療費でも出してもらうのだろうか。
益田は眉をひそめた。
情けない。呉美由紀が本当に榎木津を蹴って踏んだとしても、先に悪さをしたのは絶対にこの男のほうだ。
「責任って、何をしてもらうんです」
「このバカオロカ！ 身体を傷物にされた責任といえばひとつしかないじゃないか」
怒っているというより、むしろ楽しげな榎木津の様子に、益田は怪訝な顔になった。
「ひとつ？」
「結婚だ結婚！」
「はああああ！？」
「女学生君は僕と結婚する責任がある！」
「ないですよ！！！」
確かに、女性の顔や身体に傷をつけた責任を取ってその人を貰いうけるという話は聞くが、その反対は聞いたことがない。
しかも、それは一生残る傷にかぎっての話だ。榎木津の痣は、一週間も経てば姿形もなく消えるだろう。
いったい昨日の昼に何があったんだ、と益田は台所から出てきた寅吉に説明を求めた。
「和寅さん、本当なんですかあ？ 美由紀ちゃんが榎木津さんを蹴ったって」
「本当のことだッ！」
「榎木津さんには聞いていません！」
キッと榎木津を睨んでから、益田は寅吉にすがるような目を向ける。
寅吉は、益田に向かって肩を竦めてみせた。
「先生が悪いんですよう」
「やっぱり！」
何がやっぱりだ、と榎木津の叱咤が降りかかるも、益田は無視してウンウンと頷いた。
呉美由紀という少女が理由もなく榎木津を蹴ったり踏んだりするはずがない。
だとしたら、いったい、何をしたというのだ――。
寅吉は厚い唇を突き出して榎木津を睨んだ。
「自業自得ってもんですぜ。先生が寝室の床に寝ていなさるから」
「は？」
「何を踏んだのかは分からないがね、先生がすっころびなすったんだ。で、ものすごい音がしたんで、驚いた美由紀さんが寝室に飛び込んで、その勢いのまま床に寝転ぶ先生を蹴り飛ばした」
「…………」
はあああああ！？
なにそれ。
「痛かったぞ！」
なぜか胸を張る榎木津。
益田としては、もはや笑っていいのか呆れたらいいのかすらわからない。
「で、そのあとさらに踏まれたんですか」
下からスカートの中でも覗いて踏まれたのかな、と思ったのだが。
「美由紀さんの後ろから私が飛び込んだもんで」
「……」
……もしかして。
まさか――。
背中を押されて前につんのめった美由紀が榎木津を踏んだ？
無言の問いに寅吉は頷いた。
「グエッと蛙が潰れたみたいな声を上げてましたよう」
それは聞きたかった、と思いながらも、益田は叫んだ。
「それじゃあ！ 美由紀ちゃんはひとつも悪くないじゃないですか！」
むしろ、被害者だ。痛い痛いと大げさに転げまわる榎木津と（確かにあの痣を見る限り、かなり痛かったに違いないが）、それを半泣きで謝りながらうろたえる美由紀の姿が脳裏に浮かんだ。下手したら、美由紀の心にこそ消えない傷が残ってしまう。
だというのに、理不尽な要求と主張で結婚まで迫ろうとするだなんて、ずうずうしいにも程がある。
詐欺行為だ。
このままでは、傷物にされたので責任を取って結婚するようにと云われたら、美由紀はウンと頷いてしまうだろう。
――断固、阻止！
益田はグッと拳を握った。
男は女に蹴られて踏まれたら、ありがたがるくらいじゃないとだめだ。男ならば、痛みを快感に変えるくらいの根性を見せろ！
他人が聞いたらお前と一緒にするなと云われそうなことをぶつぶつと呟きながら、益田は内心で呻いた。
ああ、と思う。
――何でそのときにいなかったのだろう。
榎木津を足蹴にする女性の姿なんて、一生に一度見れるかどうかわからない。いや、もう見ることは叶わないだろう。
ガクリ、と益田は頭を垂れた。
榎木津と美由紀と逢瀬を邪魔しないようにと配慮した自分が大馬鹿者に思えてくる。よりにもよって、そんな貴重な瞬間を見逃してしまうなんて――。
頭を抱えながら益田は悶えたが、次第に笑いがこみ上げてくる。
昨日のそれが偶然の出来事であったとしても、あの榎木津を足蹴にするとは――。
「やっぱり、美由紀ちゃんはすごいなあ……」
声には出さずにつぶやく。
ちらりと時計を見た榎木津が、眉をひそめた。明らかに不機嫌そうな顔。
益田は首をかしげた。なんだろう、と思っていると、視線が合った寅吉が肩をすくめた。
「美由紀さんが」
「ああ……」
なるほど。
来る予定なのに、時間が過ぎても来ないのか。
美由紀が来たら、榎木津はさぞ大げさに痛い痛いと騒ぐに違いない。それとも、あまりにも心配する美由紀を前に、まったく痛くないふりをするか――。
もしかすると、後者かもしれない。
おそらく、昨日だって平気なふりをした可能性もある。
寅吉が説明した昨日の場景を思い浮かべると、ふつふつと笑いがこみ上げてくる。
榎木津に睨まれて、益田は誤魔化すようにケケケと笑った。
９８．子供
公園を散歩していたら、小さな兄妹が目の前を横切っていく。
「子供を作るなら、やっぱり二人くらいが良いね」
握った手を揺らすと、美由紀はくすくすと楽しげに笑う。
「二人ですか？」
何か含みのある云い方だったので問うように首をかしげると、美由紀は目を細めて笑った。
「前に、探偵さんのことだから子供は九人作って野球のチームを作るとか云いそうだって益田さんと話したことがあったんです」
と云った。
僕は溜め息をつく。
「九人でも十二人でも僕は歓迎だけどね。君が大変じゃないか」
「え？」
きょとんとした表情で見上げてくる。
――やっぱり。
「誰と誰の話をしているつもりだったのだ！」
「だから、探偵さんと……」
「僕の子供を産める者はひとりしかいないぞ」
「……」
美由紀はようやく気づいたと、真っ赤な顔をして困ったように眉を寄せた。
――まったく。
僕は苦笑して、彼女の顔を覗き込むようにした。
「九人産むかい？」
「――！」
真っ赤な顔のまま、消えそうなくらい小さな声で彼女が答えた。
「いえ……その」
「ん？」
「二人くらいで……お願いします」
９９．血
「あの、今日は事務所に伺えないんですが」
いつもなら、「なんで」とか、「どうして」と聞いてくる探偵は、
「そうか分かった」
と、あっさり云った。
「温かくして寝なさい」
はい、と返して私は電話を切る。
「ふうぅ〜」
思わず深い溜め息が漏れた。
私は頬に集まった熱を冷ますように両手で覆ってその場にうずくまった。
体調が悪いので、と云えば心配するだろうから、ただ事務所に伺えないとだけ云うのだけれど。
行けない理由が生理のときにかぎって、探偵は何も聞いてこない。
「絶対、分かってるよね……」
あの探偵には、人間の生活がどこまで見えてしまうだろう。
彼が口にしないことがマナーであるように、私もそれを聞いたりはしない。それが探偵に対するマナーだと思うから。
「あ……」
じくじくと痛みが始まってきた。
温かくして寝なさいと云った探偵の言葉が耳に残る。
――何でもお見通しだなあ。
私は「はぁーい」と呟いて、その言葉を実行するために立ち上がった。
女は、月に一度、戦っている。
１００．好きだよ
「すっかりお気に入りの枕ですなあ」
私の膝を枕にぐうぐうと寝ている男を見下ろして、和寅さんが眉を寄せた。
「だらしのない顔をして、恥ずかしいですよう」
これが益田さんなら、「幸せそうな顔をして」と表現するに違いない。
どんな夢を見ているのか、探偵の口は締りがなく開いて、時折、へらへらと嬉しそうに笑う。
私としては、だらしがなくても全然かまわない。むしろ、こんな顔を見せてもらえるのは気を許してくれているみたいで幸せなのだが、和寅さんに云わせると、こんなにだらしがないと、私が探偵を嫌ってしまうんじゃないかと不安らしい。
嫌うどころか、とっても可愛くて母性本能を刺激されるんだけどな。
探偵にも負けない顔で頬が緩む自分を抑える。
「美由紀さん、足が痺れたら無理しないで起こしてくださいよ」
私は口角を上げて頷いた。
和寅さんが買い物に出かける前に開けてくれた窓から心地良い風が入ってくる。事務所へと続くドアも開けているので、ちょうど風の道が出来ているのだ。
ん、と呻いた探偵が頭の位置を動かした。
「美由紀？」
長い睫がまぶしそうに瞬いた。
寝ぼけていると、私の名前が自然に出るのが嬉しい。
私が笑って「はい」と返すと、探偵は安心したように再び目を閉じた。
――ああ。
こんな日常が、いつまでも続けばいいのに。
私は探偵の髪に手を伸ばして、優しく梳かした。
了
【京極100のお題 91〜100】
96：2007.09.23
97：2008.07.03
98：2007.08.16
99：2008.08.04
100：2008.08.05
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