榎木津×美由紀
『幼子のように』
あれ？ と思う。
神田神保町にある榎木津ビルヂング。その三階にある薔薇十字探偵社の窓から外を見ていた私は、どこまでも遠くまで澄み切った空の下に、今まで気に止めたことのなかったものを見つけて瞬いた。
――え？
じっくり見ようと、立ち上がって窓際に寄る。
「美由紀ちゃん？」
向かいにいた益田さんが不思議そうに声をかけてくるのがわかったけれど、私は視線を「それ」に向けたまま、じっとその正体を探るように見つめ続けた。
「どうしたの？」
隣の窓に益田さんが来て、同じように外を見る。
「なんか見える？」
「はい」
「え、なになに」
明るく弾んだ声に、私は「山が」と返した。
「山？」
「あの……」
私はドキドキする胸を押さえた。
そんなまさか、と思う。
でも、ありえないことではない。
探偵が後ろに立ち、私の身体を囲うようにして窓枠に手をついた。
「女学生君？」
「探偵さん……。あそこにある山……」
私はまっすぐに腕を伸ばし、遥か先――地平線に見える山を指差した。
「もしかして、富士山……ですか？」
「うん」
探偵があっさりとうなずき、益田さんもまた明るく笑った。
「あー、本当だ。ここから見えるんだなあ」
「本当に富士山！？」
「そうだよ」
うわ！
うわ！！
うわーー！！
私は興奮してしまう。
「すごい！ 富士山が見えるなんて！」
「あれ？ 美由紀ちゃん、見たことないの？」
「ないですよ！ 写真でしか――」
私は綺麗な白い三角を見つめて息を飲んだ。
うわーーー！
どうしよう！
すごい！
もっともっと近くで見たい、と身を乗り出すようにしていると、危ないと思ったのか探偵が私の腕を掴んだ。
「落ちるなよ」
「はい！」
写真のようにはっきりとその姿が見えるわけじゃない。地平線にうっすらと白い山が盛り上がって見えるだけだが、こんなに遠くても見ることが出来るなんて――。
嬉しすぎて興奮が治まらない。
私の様子が可笑しかったのか、探偵がくすりと笑った。
「今頃気づいたのか」
「あそこに山があるのは知っていましたけど、富士山だなんて思わないですよ！」
すごい、としか言葉が出てこない。
しばらく見つめて、それでも見飽きない。ほうと息を吐いて身体を後ろに倒すと、探偵にぶつかった。
「探偵さん」
なんだか楽しくて、探偵に寄りかかったままふふふと笑うと、探偵もくすりと笑うのがわかった。
「今度、富士山に登ってみる？」
「本当ですか！？」
私は飛び上がった。
登ります！
振り返って元気に云うと、探偵はにこにこと笑った。
あ、と思う。
子供みたいだ、と思われているのがわかってしまう。
なんだか子供みたいにはしゃいでしまったのが照れ恥ずかしくなってしまったけれど、探偵が優しく笑ってくれるのは嬉しくて、私はまた富士山に目を戻した。
「あれー？ でも美由紀ちゃん、小学校や中学の修学旅行で箱根に行ったことない？」
ソファーに戻った益田さんが首をかしげている。
「このあたりじゃみんな箱根でしょう」
「小学校の修学旅行は鋸山でしたから」
「のこぎり山？」
それどこ、と云いたげな声に、私は頭に地図を思い浮かべた。
「えっと、千葉の南のほうにある山……なんですけど」
「あー、そっか。じゃあ僕は行ったこと無いなあ」
「益田さんは富士山を見たことがあるんですか？」
「もちろんだよ」
益田さんは可笑しそうに笑い出した。
「箱根は地元だもん、僕の」
「あ、そっか！ そうですよね！ すごいー！」
あんな綺麗な山がいつも視界に入ってくる日常。それがどんなものなのか、まるで想像がつかない。それとも、当たり前にあるものだから、特に珍しく思ったりもしないのだろうか。
私やお祖父ちゃんなんか、毎日、富士山に向かって拝んだり挨拶してしまいそうな気がする。
「はあー。すごいなー」
感嘆の溜め息。
今まで何度も見ていた景色なのに、そこに見えるのが富士山だとわかっただけで気分が高揚してしまう。
晴れているときにしか見えなかったけど、なんで今まで気づかなかったんだろう。
寮からも見ることが出来るだろうか。
学校はどうだろう。
色々と想像していたら、わくわくしてきた。
夜に月を見るのも好きだけど、こうして晴れた日に富士山を見るのもなんだかいいな――。
「気に入った？」
探偵が楽しげに囁く。
私はまっすぐに富士山を見つめたまま、はい、と元気に答えた。
了
【陽だまりの恋のお題／01】
2008.05.16