榎木津×美由紀
『食欲』
いつものように神田神保町の探偵事務所を訪れると、ドアを叩いても返答がない。
昼間なのに灯りがついているので人はいるはずだ。所用で和寅さんが出かけているのか。それとも聞こえなかったのか。
寝室で探偵が寝ていることも多いので、私は鐘を鳴らさないようにそっと事務所のドアを開いた。
「和寅さん……？」
いますかー？
顔だけをのぞかせて、中の様子を伺った私は、驚いて飛び上がった。
事務所の中で、三人が倒れていたのだ。
「探偵さん……！」
ダブルソファーには探偵が、床では探偵助手と秘書の二人が、それぞれ仰向けになって、力なく横たわっていた。
室内は重く澱んだ臭い。
三人とも死んでいるようにしか見えない。
「益田さん！ 和寅さんっ！」
驚いて駆け寄れば、三人とも「んん……」と唸った。
目は閉じているが胸が動いている。気絶しているわけでもなさそうだ。
ただ寝ているだけだとわかって、私は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
「もう……」
驚かさないでほしい。
思わず脱力。
なんでこの人たち、こんなところで寝ているんだ。
私は大きく息を吐くと、
「益田さん、和寅さん……！」
床の二人を揺すった。
「んー。美由紀ちゃん……？」
まるで「あと五分」とでも云いたそうに益田さんが手首を振る。
「益田さん！ 和寅さんも起きてください！」
「ん、んん……」
もぞもぞと動いて唸ったあとに、二人はそろって起き上がった。
「あれぇ？ 美由紀ちゃん、どうしたの」
「美由紀さん……どうしたんです？」
「女学生君」
探偵も、太陽の光が眩しいのか顔をしかめて、目を細めて私を見た。
「どうしたのだ」
目を擦りながら、私を見つめる顔は三人とも怪訝な表情で。
どうしたもなにも、いつもの訪問なのに、そんなことを云われては私のほうが困ってしまう。
むしろ、どうしたと聞きたいのは私の方だ。
仕事が忙しいから来ないようにと電話でもあったのならともかく――。
連絡の行き違いでもあったのだろうか。帰った方がいいかなと迷っていると、益田さんが首をかしげた。
「今日は金曜日でしょう？」
「……土曜日です」
「ええ？ 金曜でしょ？」
「土曜日ですけど」
「じゃあ、金曜日は？」
昨日だと伝えると、突然、和寅さんが目を見開いて叫んだ。
「もしかして、丸々二日寝ちゃったんじゃないですかい！？」
「まさかあ。やだなぁ和寅さん、いくらなんでもそんなことあるわけがないでしょう」
「女学生君」
探偵は、ふわわと大きなあくびを漏らした。
「今日は何日」
「え？ 29日ですけど」
ほら、と和寅さんが叫んだ。
「やっぱりそうですよう！ ――ああ、美由紀さん、座ってください」
和寅さんは新聞を取ってきますね、と事務所を出て行ってしまう。
探偵はまた目を閉じて眠ってしまった。
私は立ち上がり、窓を開けて部屋の空気を入れ替えると、台所に向かった。水で濡らしたタオルをギュッと絞って、益田さんに渡す。
私は探偵の目の上に折りたたんだタオルを乗せた。
「仕事だったんですか？」
益田さんは床で胡坐を組んだまま顔にタオルを当てている。
「うん、今回はちょっと厄介ごとに巻き込まれて。でも、もう終わったから」
探偵も益田さんもあまり目立たないが、三人とも無精ひげが生えていた。二日も寝ていたことを考えると、少なくとも、三日は手入れしていないことになる。
「徹夜？」
「んー、徹夜……というか、なんかもうバタバタしちゃって。僕たち三人とも容疑者にされたり監禁されたり脱走したり」
「監禁されて脱走！？」
「そう」
益田さんは顔を上げてケケケと笑った。
「山の中を一晩中駆けずり回って大変だったんだ。でも、まあ誤解だったわけだし。榎木津さんが暴れて中禅寺さんが出てきて、解決。ま、いつものパターンだね。木曜の昼に戻ってきたんだけど、みんなでそのままバタンQ」
「それは……」
いつにもましてすごい。
「お疲れ様でした」
私が云うと、益田さんはニコッと笑って「お疲れ様」と云った。
「さてと、おなかもすいたし、銭湯にも行きたいし、僕はもう上がらせてもらおうかな」
益田さんは大きく背伸びをして、肩や首を回した。細い身体からバキボキと豪快に骨の鳴る音が鳴り響いた。ふう、と息を吐いて脱力した身体は、まだ疲れが残っているようだ。気が抜けたようにぼーっと前を見ていた彼は、ふ――と私を見て笑った。
「美由紀ちゃん、ゆっくりしていってよ」
「はい」
よく見れば、益田さんのズボンの膝や裾、靴が泥で汚れている。いったい、どこを駆けずり回っていたのだろう。
タオルを預かり、探偵助手を見送ると、入れ替わるように新聞を取ってきた和寅さんが戻ってきた。
「美由紀さん、ほら、もう事件のことが載っていましたよう」
「え、どこですか？」
和寅さんから新聞を受け取って、その場所を教えてもらった。新聞の三面。軽井沢で起こった事件の詳細が小さく書かれていたが、そこに探偵たちが関わったような形跡はない。
「和寅さんも行ったんですか？」
「そうなんですよう！」
いつもは留守番の多い和寅さんも今回は珍しく巻き込まれたらしく、軽く身奇麗にしてきたあと、そのときの状況を詳しく話してくれた。巻き込まれて迷惑だよ、と文句を云いながらどこか嬉しそうな彼が微笑ましい。
探偵はまだ寝たりないのか、タオルを目にかけたままソファーで横になっている。
話の途中で、和寅さんが時計を見て立ち上がった。
「先生、風呂が沸きましたぜ」
風呂場から声をかけてくる。
「先生、早く入ってくださいよう！」
先生、と何度呼ばれても探偵が起きる様子はない。
「探偵さん」
「眠い」
眠いというより、寝すぎてかえって身体がだるいんじゃないだろうか。
「お風呂、沸いたそうですよ」
「疲れた」
「お疲れ様でした」
よしよし、と探偵の頭を撫でてあげると、探偵がタオルを外して私を見上げてきた。
「あまり近くに寄ると臭うぞ」
思わず瞬いた。
「私が、ですか？」
探偵は顔をしかめた。
「君は良い匂いしかしない」
僕だ、と云う。
「四日、……いや五日か、風呂に入ってない」
「なんだ」
そんなこと、と私は笑った。
「気にしません」
探偵がまじまじと私を見上げるので、可笑しくなった。もしかして、臭いにおいが好きな珍しい娘だとでも思われたのだろうか。
「別に、臭いにおいが好きなわけじゃないですよ？」
一生懸命に働いて臭うのと、不潔な臭いはまったく違う。
探偵はそれでもまだ私の顔をじろじろと見る。
私が首をかしげると、彼は口角を上げた。
「君はすごいな」
「は？」
「うん。すごい！」
「何がです」
「すごいのだ！」
まるで答えにならないことを云うと、探偵はいきなり腹筋を使って勢いよく立ち上がった。
「和寅！」
風呂場に向かいながら、探偵は怒ったように叫んだ。
「和寅！」
「はいはい、なんですかい？ そんな大声を出さなくても聞こえますよう」
くるっ、と振り返った探偵が、ひとり残された私を見て、真剣な顔でソファーを指した。
「そこで待っていなさい」
私が頷くと、探偵は踵を返す。その背中を見て、思わず笑ってしまった。
本当に、何もかもが突然な人だ。いったい、どんな冒険をしてきたのやら。
身体だけでなく、目も相当酷使しただろうに――。
「……」
もう少し寝かせてあげた方がよかったかな、と思う。
でも、疲れもすっかりとれた清清しい顔をしていたから、もう大丈夫だろう。
私は静かに笑って呟いた。
「お疲れ様でした」
風呂場から、うわははは、と高笑う声と豪快な水音が聞こえてきた。
ぷ、と私は笑った。
すっかりオンになっている。
――ああ。
また、いつもの日常が始まる。
「腹が減ったぞ！」
探偵が元気に叫んだ。
了
【古風気味な百の題目／020】
2006.11.02