榎木津×美由紀
『食欲 その後』
腹が減ったと子供のようにうるさい探偵は、和寅さんが作っては出してくるおかずをあっという間に平らげて行く。
暴れまわったあとに二日も寝続けたのだから、お腹が空くのは当然だと思う。
思うのだけれど、問題は――。
「探偵さん」
「ん？」
「まだ食べるんですか？」
「うん」
「もういいでしょう。放してください」
「やだよ」
云って、探偵は私の肩から顔を出すと、最後の肉を口に入れた。
出来たての料理。私はそれを箸で探偵の口に運んでいる。それはまるで雛に餌を運ぶ親鳥のようで。
しかも、私は探偵の膝の上に座らされ、腹に両腕を回されているので逃げることもできない。
もぐもぐもぐ、と探偵が咀嚼して嚥下する流動が背中に伝わってくる。
「探偵さん」
「だめ」
だめ、やだ、まだ。――探偵の返事はずっとそれの繰り返しだ。
和寅さんは空になった皿を受け取ると、新しい皿を私に渡して次の料理に取り掛かった。
まだ作るのか――。
いくら探偵のお腹が空いているからといって、食べなかった日数分の食事を取る必要はないわけで。
しかも、おかゆとかスープとか、身体が受け付けやすいものから徐々に胃を慣らすならともかく、いきなり揚げ物からスタートして、炒飯、煮物、焼き物と続いている。あとでお腹が痛くなったと騒がなければいいけど……。
――まったく。
私は溜め息をついた。
何でこうなってしまったのだろう――。
※
美由紀さん、と和寅さんが真剣な顔で私にお願いしたのは、一時間も前のことだ。
「食事が出来るまで、先生をちょっと黙らせておいてくれませんか」
ええ？ と思ったが、それを聞いた探偵は、元気に私を手招いた。
「女学生君！ ここ！ ここ！」
ここに座りなさい、と自分の膝を叩く。
誰が座るか！ と私が嫌な顔をすると、探偵はペンペンと膝を叩いたまま「ご飯！」と叫んだ。
「和寅！ ご飯だ！ 早く作れ！！ 早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く！ 遅いぞ！ ノロマ！ お前は亀か！ 鈍亀！ 僕を飢え死にさせるつもりなのだな！ お前はクビだ！ 今すぐ出て行け！」
事務所内に響き渡る大声。
あああああ、もう、最悪だ。
和寅さんの「美由紀さんお願いします」という切実で真剣な目が痛い。探偵は「腹が減った」「早く作れ」と騒ぎ続けている。
おそらく。
たぶん。
確実に。
それは私の一言でピタリと止まる。
私はガクリとうなだれた。
「……わかりました……」
とたんに、探偵はピタッと口を閉じた。時々、本気でこの人の首を絞めたくなるのはどうしてだろう。
和寅さんは袖をまくって「よし！」と気合を入れた。
「それじゃあ、私は買い物に行ってきますのでよろしく！」
「そこからですか！」
それならいっそ外へ食べに出かけたほうが早いのに。
「店だからと、先生の態度が変わると思いますかい？」
料理が出てくるまでギャアギャア騒ぐ探偵を想像しただけでドッと疲れてしまった。
「……そうです、ね」
被害は最小限に止めたいところだ。
というか、その場合の被害は私一人が被ることになるのは問題だけど。
それじゃあよろしくお願いします、と云って和寅さんはサイフを手に事務所を飛び出していく。
入り口の鐘が静まるのを待って、私は探偵を見た。
先ほどまで騒いでいた探偵は、満面の笑顔て両手を広げた。
「おいで」
――やっぱり、ずっと寝かせていけばよかった。
「おいでじゃないですよ」
「じゃあ、来て」
「一緒です」
第一、探偵を静かにさせろって、何をさせておけばいいんだ。本でも読ませるとか？ オセロでもやるとか？
「珈琲でも飲みますか？」
「いらない」
「紅茶とか」
「いらない」
「緑茶……」
「いらない。水もいらない」
先制された。
「女学生君だけでいい」
私は溜め息をついた。
探偵に近づいて、その手を取る。
「私は食べられませんよ」
「僕は食べる！」
にこにこにこ。
本当に食べられてしまいそう。
「私なんてガリガリだから食べるところはありません」
「じゃあ、試してみよう」
パクッ！ と探偵は私の手を食べるふりをした。
というか、本当に歯が当たっている。
カジカジカジ。
甘噛みされて、私は声を出して笑ってしまった。
「飢えすぎ」
探偵は顔を上げてくすりと笑った。歯を当てていた場所に「ちゅ」と音を立てて口付けて、彼は目を細めた。
「食べるのはもう少し太らせてからにしたほうがよさそうだ」
「そうしてください」
私は探偵に導かれるまま、彼の膝の上に腰を下ろした。
とたんに、探偵のお腹が盛大に鳴ったので驚いた。
「本当にお腹が空いているんですね」
「当たり前じゃないか」
てっきり、大げさに騒いでいただけだと思ったのに。
「私、あるもので何か作りましょうか？」
吸い物を口にするだけでも違うだろう。
立ち上がろうとしたら、お腹に腕を回して引き寄せられた。
今度は探偵を椅子のようにして、抱きかかえられてしまった。
「探偵さん！」
「よし」
何がよし、だ。
満足そうに探偵は笑っている。ニコニコと、嬉しそうに笑う探偵の表情が見なくてもわかった。
君はここにいなさい、と云う。
「でも」
「いいから」
うふふ、と笑って、探偵は私の肩に顔を埋めた。こうなると、何を云ってもダメなことは何度も経験している。
まだ乾いていない探偵の髪がひんやりと頬や首筋に当たった。
――あ。
ふ――と香ったシャンプーのいい匂いに目を閉じる。
ちゃんと頭を乾かさないままで、風邪引かないといいけど……とぼんやり思っていると、やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
「……探偵さん？」
声をかけても、返答は無い。
私は静かに息を吐いた。
――ああ、これで静かになるかも。
なんて安堵したまま、探偵の寝息に誘われて目を閉じたら、一緒に寝てしまったのは一生の不覚。
しかも、目が覚めたのは私のほうが遅く、くすくすと探偵に笑われてしまう。
「おはよう」
一瞬でときめくような声で耳元で囁かれた。跳ねるように振り返れば、すぐ目の前に探偵の顔があってさらに心臓が高鳴る。
「おは、よう、ござ、い、ま、す……」
心構えもなしに、いきなり探偵の顔は心臓に悪い。ブリキの人形のようにぎこちない動きで顔をそらしながら呟くと、それを探偵が可笑しそうに笑うから頬が紅潮した。
起こしてくれたらいいのに――。
探偵の腕の中が心地よくて、子供みたいに眠ってしまったことがひどく恥ずかしい。
いったい、何分くらい寝てしまったのだろう。
すでに和寅さんは買い物から戻って、台所からは包丁とまな板の音がする。
油で揚げる匂い。
から揚げだ――。
なんだか、私までお腹が空いてきてしまった。
探偵の腹からも、ギュウウキュルキュルと音がし続けている。
「おや、目が覚めましたか」
台所から出来てきた和寅さんが、私を見て相好を崩した。
「美由紀さんのおかげで、先生が静かで助かりましたよう」
イカと鳥のから揚げが山盛りになった大皿を持っている。
「わ！ 美味しそう！」
「ご飯はまだ炊けませんから、先におかずだけでも食べていてください」
やっと出来たか、と立ち上がろうとするも、探偵が私の腰に回したままの腕を解こうとしない。
「探偵さん、ご飯が出来ましたから」
「うん」
「……あの、うんじゃなくて。放してください」
「やだよ」
「やだよじゃなくて。探偵さん」
「やだ」
「このままじゃ食べられないじゃないですか」
「君が食べさせてくれるのだろう？」
「何で！」
「僕がそう決めたから」
にっこりと笑って探偵が云う。
私が云い返そうとしたら、和寅さんが「じゃあ」と私の膝の上に皿と箸を置いた。
「美由紀さん、お願いします」
――は！？
呆然とした私にかまうことなく、和寅さんはさっさと台所に入って次の料理に取り掛かってしまった。
背後では、探偵がふふふと嬉しそうに笑った。
「女学生君、あーん」
私の肩から顔を出して、口を開けた。
「早く早く」
楽しそうな声。
完全に、私をからかって楽しんでいる。
「子供じゃないんですから、自分で食べてください！」
はっきりと云い放った。
なんで、とか。どうして、とか。きっと云い出すにちがいない。でも、ここで素直に探偵の云う事を聞いたらだめだ。古書肆だって云っていた。探偵を甘やかしすぎてはいけないと――。
探偵が云ってきたらなんと返そうかと考えていたが、私の予想とは逆に、探偵の反応がピタリと途絶えた。
冷たく云い過ぎただろうか、とドキドキしていたら、大きな溜め息が聞こえてきた。
「わかったよ」
ふてくされたような声。明らかに機嫌を損ねたのはわかったが、だからといって、ここで負けたら探偵の思うがままだ。
「探偵さん」
腕を離してください――。
そう口にしようとした私の首筋に、突然、探偵がカプリと噛み付いた。
「――たッ！？」
背筋がぞくりと震え、全身が硬直した。
「探偵さん！？」
すぐに離れたが、今度は首筋に口付けられた。
「ちょ……！」
――何！？
しかも、吸っている。
「――や……ぁっ」
膝に乗っていた皿が傾き、から揚げがテーブルにこぼれてしまう。
「わ、わかりました！ やります！ やりますから！」
喜んでやらせていただきます！
私が叫べば、やっと探偵が唇を離してくれた。
「な……！」
なんてことを！
「し……！」
信じられない！
――あああ！ もう、最悪！！
私は首もとを押さえて探偵をにらんだ。
云いたい事が溢れてくるのに、言葉にならない。
身体が熱くなってドッと汗が吹き出している。
私が反抗的だからって、こんな反撃は想定外だ。
探偵はくつくつと笑っている。
「美由紀さん！？ どうしたんです」
和寅さんが台所から顔を覗かせるので、私は慌ててテーブルからから揚げを拾いあげた。
「か、から揚げを落としちゃって」
耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。当然、和寅さんだって何かがあったことくらいはわかるだろう。
「……先生、あまり美由紀さんをいじめないでくださいよ」
「いじめているのではない！ 愛でているのだ！」
――どこがだ！ と叫びたいのに、顔に熱が集まって言葉にならない。
ふふふと笑って探偵が私を再び抱き寄せた。
「素直にハイと云わないからだゾ」
探偵の囁きに、身体全体が熱を放つ。
ええもう、本当に。
私が馬鹿でした、と心から思う。最初から素直にハイハイと従っていればよかったのだ。
無駄な抵抗、とか。
無駄な足掻き、とか。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
神の言葉に逆らうとろくな事にならない――。
ぐうぅきゅるるるる……、と探偵のお腹が鳴った。
お腹が空いているなら、とっとと自分で食べればいいのに――。
「女学生君」
――憎たらしい。
私はから揚げに箸を突き刺すと、彼の求めに応じるために、大きく息を吐いて呼吸を整えた。
了
【美由紀嬢を食事が出来上がるまで探偵氏に生贄として捧げたい、というコメントより】
2008.11.25