榎木津×美由紀
『あいあいがさ』
「探偵さん！」
目を丸くして驚いた表情の彼女に満足して僕は笑った。
土曜日の午後、神田神保町は学生で溢れているが、美由紀のように制服姿の若い女性は少ない。
美由紀は駅の改札を抜けて小走りで駆け寄ってきた。
「探偵さん、どうしたんですか」
「迎えに来たのだ」
ふふふ、と僕が笑えば、美由紀は楽しそうに笑って首をかしげた。
「誰か来るんですか？」
「……」
時々、彼女は本気でボケる。
「今来たところだよ」
まっすぐに美由紀の目を見て云えば、
「あ！」
私ですか、などと云うから溜め息もつきたくなる。
「君以外の誰を迎えに来るのだ！」
「えっと……」
考えても思い浮かばないのか、すみません、と美由紀は申し訳なさそうに謝った。八の字になった眉。くそ！ 可愛いじゃないか！
今、急に抱きしめたら怒るだろうなあ。
こんなにも我慢しているのに、彼女はぜんぜんわかっていない。
「行くぞ」
「はい」
頬を染めて照れたように笑うのがさらに可愛い。本人が無自覚なだけに最悪だ。
こんな表情を、僕以外の者にも見せているのだろうか。そう思ったら、なんだか腹が立ってきた。
僕は立ち止まると、くるりと振り返って腰に手を当てた。ここは大人としてきちんと忠告しておくべきだろう。
「君は危機感がなさ過ぎる！」
美由紀は目を見開いて僕を見上げた。
何でいきなり怒り出したのかまったく分かっていない様子で、美由紀は「はあ……」と空気の抜けたような声を出した。
「危機感……ですか」
「あんまり無邪気に笑うんじゃない」
「別に無邪気に笑ったりしていませんけど」
「じゃあ、可愛く笑うんじゃない！」
「可愛くなんて笑っていません」
キリッと、今度は眉をＶ字に上げた。ほら！ 怒った顔も可愛いじゃないか！
「また可愛い顔をしたゾ！」
「してません！」
美由紀は僕をにらんだ。
「そんなことを云うのは探偵さんだけです」
人目が気になるのか、美由紀は声を落とすと、僕を避けてさっさと歩き出してしまった。
「僕は正直なだけだ」
「だから、そういうことを云わないでください」
恥ずかしそうに紅潮した頬。すでにそれだけで可愛いのに。
「なんで？」
僕は首をかしげた。可愛いから可愛いと云ってなにが悪いのか、さっぱりわからない。
なんでって、と美由紀は口を魚のように開けた。
その様子が可笑しくて、わははと声を出して笑うと、美由紀は本当に怒って口を閉ざしてしまった。両手と両足を大きく動かして、すたすたと早歩きで事務所に向かう。女学生君どうした、と云っても無視。
「女学生君」
返ってくる言葉はない。
はあ、と僕は溜め息をついた。女の子が怒ると無視するのはどうしてなのだろう。怒ったのなら、思いっきり口にすればすかっとするのに。
「我慢はよくないぞ」
美由紀の背中は僕を拒絶し、黙々と歩き続ける。
仕方がないから後ろをついて歩きながら古書店街を進んでいると、
「あ！」
立ち止まって僕が上げた声に、美由紀が驚いて振り返った。
「女学生君！ パフェを食べよう！ 新作が出ているぞ」
喫茶店の入り口に張られたチラシを指差し、食べよう、と彼女を誘う。
「美味しそうじゃないか！ パイナップルがたくさん乗っている！ バナナちゃんもあるぞ！ アイスクリームもついてる！」
美由紀は僕を無視するかどうかで迷ったのだろう。複雑な表情をいくつか浮かべたが、結局、怒っていた肩が脱力する。
もう、と彼女は云った。
「怒っている自分が馬鹿らしくなってきます」
「うわははは！ 京極から云われただろう、僕と付き合うとみな馬鹿になるのだ！」
「探偵さん」
美由紀は、どうして自分が怒っているのか分かっているんですか？ と問うような目でにらんできた。
僕はにこっと笑った。
「怒っているときは甘いものを食べるといいぞ。我慢もよくない！」
「探偵さんは我慢が足りなさすぎです」
「僕はいつも我慢している！」
美由紀は大きな溜め息をついたが、足が僕のほうへと向かってくるので嬉しくなった。
パフェだパフェ！ パッフェパフェ！ 楽しいからパフェの歌を歌おう。
「パーフェ、パーフェパフェ、魚の子♪」
「なんですかそれ」
呆れたように――くすりと笑って、美由紀は楽しげに僕の背中を押した。
「入りましょう」
小さな喫茶店だった。広くもない店内には、小さな木製のテーブルが三つあるだけ。椅子も全部で六脚しかないが、かえって程よい空間が出来ている。
落ち着いた店内にはジャズが流れて、センスもいい。
なにより、目の前には呉美由紀。
うん。気に入った。
新作のパフェと珈琲を二つ頼んで、メニューを見ている美由紀を見つめた。
彼女の伏せた目が文字を追って動くのを見るのが好きだ。瞬いて、その目が僕に向くのを待つのも。
「髪を切ったのだな」
「あ」
顔を上げると、美由紀は恥ずかしそうに額を押さえた。
「変ですか？ 少し切りすぎてしまって」
「目の上直線で可愛いじゃないか」
僕が笑うと、美由紀は少し不満そうに唇を尖らせた。褒めたのに、何が不満なのだろう。
「また可愛いって云う」
その物言いに笑ってしまった。気分が浮き立つのは、ジャズのせいばかりではないだろう。
「じゃあ、なんて云ってもらいたいのだ」
緩む口を押さえて問い返せば、美由紀は恥ずかしそうに頬を染めて黙り込んだ。そんな彼女を見ていたら、いじめたくなるのはしょうがない。
「女学生君？」
ニヤニヤと笑ってしまう。
からかわれているのが分かったのか、美由紀は背を伸ばして「負けないぞ」という表情になった。
「まあまあだな、とか」
「まあまあだな？」
僕は目を丸くした。そんなことを云われて美由紀は嬉しいのだろうか。そう問い返せば、彼女も微妙に思えたのか、言葉を変えた。
「いい感じだな、とか……」
「いい感じ？」
僕は首をかしげた。
「って、どんな感じ？」
う、と美由紀は怯んだ。
「どんなって……」
美由紀は拳を口に当てて考え込んでしまった。
ふふふ、と笑いたくなる。本当に可愛いなあ。
「僕は嘘をつかないぞ。可愛いものは石でも雲でも卵でも可愛いと云うのだ。君は可愛いのだから、僕が可愛いと云ったら胸を張って当然ですと云いなさい」
「そんなこと云えません」
「云うの！」
僕が眉を上げたら、美由紀は吹き出して、小さく声を出して笑った。
「じゃあ、今度からはありがとうございますって云うことにします」
「うん、そうしなさい」
綺麗に盛り付けられたフルーツパフェがテーブルに置かれて、僕は歓声を上げた。
「美味しそうじゃないかッ！」
美由紀がくすりと笑ったのは、僕を子供みたいだと思ったからだろう。でも、彼女の優しくてまっすぐな目は嫌いじゃない。気分が浮き立つ。
美由紀は口元に笑みを浮かべたまま、綺麗な両手を胸の前で合わせて、「いただきます」と丁寧に云った。
僕があっという間にパフェを食べると、まだ半分も食べていない美由紀が自分の器を前に出して「食べますか？」と聞いてきた。
うん、と頷けば、どうぞ、と彼女は笑う。
「一緒に食べよう」
「はい」
二人でパフェを交互に食べながら話をしていると、いつの間にか外は雨が降っていた。
「傘、持ってきた？」
美由紀は首を横に振った。
事務所までは歩いて五分もかからない距離だったが、それでも五分も歩けばびしょ濡れだ。
通り雨ならともかく、雨は今夜にかけて降り続く。
「お客様」
店主が傘を二本手に声をかけてきた。
「よろしければお使いください」
「わ。ありがとうございます！」
美由紀が慌てて立ち上がると、丁寧に頭を下げて傘を受け取った。
「よかったですね、探偵さん」
嬉しそうに笑う彼女に笑みを返す。僕は会計を済ませると大きな傘を一本だけ借りて、もう一本は店主に返した。
美由紀はきょとんとしていたが、僕が傘を差して「おいで」と招くとすぐに了解して傘の中に入ってきた。
見送る店主に美由紀は会釈すると、僕を見上げた。
「探偵さん、ごちそうさまでした」
「美味しかった？」
「はい」
笑みを浮かべて、彼女は傘を持つ僕の腕にそっと手を回して身体を寄せてくる。
ああ、どうしよう。
本当に、可愛い。
可愛い。
可愛い。
可愛い。
立ち止まり、傘を前に倒して前方からの視界をさえぎると、僕は彼女の唇に自分のそれをそっと重ねた。
「っ！」
硬直した彼女に笑って僕は叫んだ。
「ごちそうさまだッ！」
了
【榎木津×美由紀祭投稿】
2008.12.31