榎木津×美由紀
『羽根突き』
もともとは神事なのだという。
年が明けて五日。寮が開く初日に東京へ戻ってきた私は、その足を神田の探偵事務所に向けた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう女学生君！」
新年の挨拶をするなり、羽根突きをしよう、と笑顔で目の前に差し出された羽子板には驚いたが、反射的に頷いたりはしなかった。
「私はいいです」
首を振って断ったのが意外だったのか、可愛らしい女の子の絵が描かれた羽子板を手に、探偵はきょとんとした顔で首をかしげた。
「どうして？」
――どうして？
私は応接のテーブルに置かれた硯と筆を見つめた。書初め用ではないのは明らかだ。
「打ち損なったら、墨で顔に落書きするじゃないですか」
「あれは落書きじゃないぞ」
「落書きでしょう」
「厄除けだよ。病気除け」
真面目な顔で云われて、私は思わず戸惑った。それは、本当のことなのか、騙りなのか。
「そうなんですか？」
「京極が云っていた」
じゃあ本当なのだ。
すぐに納得したのがわかったのか、探偵は不機嫌そうに私を見下ろした。
「近頃、疑り深くなってきたな。誰の影響だ？」
「探偵さんの影響だと思いますけど」
彼の嘘をあっさり信じて、恥ずかしい思いを何度したことか。
探偵は唇を尖らせた。
「本気の言葉は信じないくせに」
「探偵さん」
私はにっこりと笑った。
「狼少年という童話を知っていますか？」
「知っているよ。赤ずきんちゃんを騙して食べてしまう少年の話だ」
「ち が い ま す」
「そんな話はいいのだ」
よくない、と私は思う。
探偵は私の手に羽子板を押し付けた。
「羽根突きは昔から女の子が健やかに育つようにという願いを込めて行われる神事なのだから、君がやらないと意味が無いじゃないか」
きっと、それは本当のことなのだろう。
でも、と私はやはり首を横に振った。
西洋人かと思うほど色が白くて綺麗な探偵の肌。一方、床に腰をついて、疲れたように息を吐いている探偵助手の顔には○や×、皺や髭などが墨で書かれて見るも無残な状態になっていた。
「絶対に嫌です」
「大丈夫だって。可愛く描いてあげるから！」
「描く気満々じゃないですか！」
「君が勝って、僕の顔に墨で落書きすればいいのだ」
「やっぱり落書きなんじゃないですか！」
探偵がこの手の競技で負けるわけが無い。落書きされる一方なのは目に見えてわかっているのに、誰が喜んで「はい」などと云うものか。
頑なに拒んでいたら、次第に探偵の顔に「面白くないぞ」という文字が浮かび始めた。
と思ったら、
「面白くない！」
元気に叫んだ。
「面白くないぞ！」
表情と感情が直結しているから、なんともわかりやすい。なんだか可笑しくなって、ぷ――と小さく笑ってしまった。
こうなると、私の方が負けだ。
ああもう。
私は溜め息をついた。
「じゃあ、一回だけ」
これで負けたら私の方が悔しくなって、何度も対戦してしまいそう。
「よし！」
探偵は、私の言葉に機嫌を良くして、もう笑っている。
コン、という音が響いて私から羽子を打つと、探偵はすぐに反応して返してくる。一回だけと云っているから、すぐに勝負を決めるつもりはないみたいで、探偵は下打ちで私が打ちやすいところに返してくれる。でも、そのうち不意をつくように上から打ったり、強く打ってきたりしだした。探偵の楽しげな様子は伝わってくるが、私は羽子を追うのに必死で、とても相手の顔を見ている余裕はない。
暖かい室内で、だんだんと汗が吹き出してくる。
私は益田さんと和寅さんの声援を受けながら、真剣に羽子を追った。
早く勝負を決めなくては、と強く打ち返しても簡単に拾われてしまう。打ち合いはかなり続き、気分が高揚してだんだん楽しくなってくるから困る。ついには私が小さく笑い出してしまい、探偵もまた声を出して笑い出した。
「にゃんこ髭を描くぞ！」
こんちくしょう。
こうなったら意地でも勝って、探偵の口の周りに泥棒髭を描いてやる！
そう思った私の決意が勝機を掴んだのか、それとも益田さんの応援のおかげなのか。おそらく、後者だろう。熱心な益田さんの応援に「うるさいぞマスカマ！」と気をそらした探偵の隙をついて羽子を打てば、それは見事に探偵の羽子板をかすり抜けたのだった。
やったやった、と喜ぶ私と益田さんと和寅さんとは対照的に、探偵は新年から人を呪い殺しそうな顔になっている。
「美由紀さん、墨」
「美由紀ちゃん、筆」
「ありがとうございます」
益田さんから筆を受け取り、和寅さんが差し出してくれた硯の墨に筆先をたっぷりつけて、探偵の前に私は立った。
「厄払いですよ、探偵さん」
「僕は厄年じゃない」
往生際が悪いなあ。
「探 偵 さ ん」
キリッと睨むと、探偵はおとなしくなって、ムッとした表情のまま目を瞑った。
長いまつげだ。通った鼻筋、綺麗な輪郭に肌。端整な顔立ちは、男の人なのに綺麗だなあと思ってしまう。こんな顔に落書きをしたら、芸術家が怒るんじゃないだろうか。
私はなるべく綺麗な円を意識して探偵の口の周りに筆を走らせた。最後は最初に描き始めた線と重なるようにして筆を放す。
ブハッと益田さんと和寅さんが大きく吹き出した。
目を開けた探偵が、一瞬だけ不思議そうな顔をして、大きな目をさらに見開いた。鏡を見るより先に私の記憶が見えたのだろう。怒るかな、と思ったが、探偵はなぜか面白いことに遭遇したかのような笑みを浮かべた。
「泥棒か」
「泥棒です」
うわははは、と大笑い。
「僕が泥棒ならすることはひとつだっ！」
突然、目の前が陰り、唇に柔らかいものが触れて離れた。
あああ！ と益田さんが叫び、探偵はうわはははと笑う。
「厄払いだッ！」
真っ白になった頭が、徐々に思考を取り戻す。かああ、と顔に熱が集まった。探偵の触れた唇が覚えた感触はなかなか消え去らない。
私は探偵を睨んだ。
にこにこと、泥棒は笑う。
「真っ赤だね、女学生君」
可愛い、と云って、彼は再び羽子板を手に振った。
「もう一度やる？」
了
【E・M・F後夜祭】
2009.01.11