榎木津×美由紀
『そっと耳打ち』
季節の変わり目の雷は突然だ。ソファーに座って本を読んでいたら、遠くからゴロゴロという音が聞こえて来た。
私はすぐに本を置いて立ち上がる。台所にいる和寅さんを慌てて呼んだ。
「和寅さん！ 雨が降ります」
今日は朝から晴れていたので、屋上にたくさん洗濯物を干しているのだ。
ゴマを擦っていた音で気づかなかったのか、和寅さんは「え？」と問うように瞬いた。だが、すぐに雷の音に気づいて表情を変えた。
「大変だ」
「私、先に行きます！」
洗濯籠を取りに行った彼を残して、私は屋上へと走った。
ゴロ、と雷が鳴る。事務所に来たときは明るかった空が灰色に染まり、いつ雨が降ってきてもおかしくない状態だ。
洗濯バサミを外してシーツを引き寄せていると、和寅さんがやってきた。
私はシーツを肩にかけると、ハンガーにかけてあるシャツをそのまま外していく。
ポツ、と雨が一粒、頬に触れた。
ポツ、ポツ、ポツ。
「うわ」
とりあえず、持てるだけ抱えて階段に向かった。
和寅さんも全部取り終えると、滑るように私の隣に駆け込んできた。
間に合った、と思った瞬間、それを待ってくれていたかのように雨がいっせいに降り出した。雨音は激しく、屋上をあっという間に濡らしてしまう。
もしもここに洗濯物が干されていたままなら、全部洗いなおさないといけなかっただろう。それを取り込む私たちも濡れ鼠だ。
「セーフ！」
和寅さんが笑って、私も笑う。
「間に合いましたね」
「美由紀さんが気づいてくれて助かりましたよう」
雷雨に混ざって、神保町はかすかなざわめきに包まれる。古書店の多いこの町は、雨が天敵だ。こういう日は中野の古本屋も大変だろう。
階段を下りると、寝室で寝ていた探偵が事務所の入り口を開けてくれていた。
「ああ、先生、すみません」
「ありがとうございます」
両手がふさがっているので、私たちは探偵の前を慌てて通り抜ける。
カラン、と鐘が鳴って扉が閉まると、ご飯、と探偵が云った。
「今すぐに用意しますよう」
和寅さんが洗濯物を和室に入れて、探偵の昼食を用意する。すでに支度は出来ているから、ご飯をよそったりお茶を入れたり味噌汁に火をかけるだけだ。
まだ眠そうな顔の探偵は、シャツの裾をズボンから出したまま、裸足でぺたぺたと歩いている。
寒くないのだろうか。
「おはようございます、探偵さん」
「おはよう。ずいぶんと賑やかだったな」
「すみません」
私たちの声や騒音で起こしてしまったらしい。恐縮していると、ちらりと探偵は笑う。
「別にいいよ」
私が事務所に来ても、ちゃんと起きて活動していることの方が珍しい人だ。
「このごろ、君は僕を起こしてくれないからな。いつも、帰ります、の挨拶だけじゃないか」
「無理して起きられるより、寝ていてくれた方が嬉しいですから」
探偵は眉をひそめた。
「無理して起きているわけじゃない」
「分かっています」
私が目を細めると、探偵は私をじっと見て溜め息をついた。
「君がそんなことを云うから甘えたくなるんだ」
「たくさん甘えてください」
その方が、もっと嬉しい。
探偵は私が聞こえない声でぶつぶつと呟く。
「和寅、ご飯！」
「はいはい、今、用意してます」
和寅さんいわく、三分も待てない探偵は、ご飯ご飯と云いながらソファーに腰を下ろした。
私は靴を脱いで和室に上がった。取り込んだ洗濯物の中から靴下を取って、探偵に手を伸ばす。
「探偵さん、これ」
ん、と言って彼が手を野球のグローブのように構えた。
投げて、と。
私は靴下を丸めると、タイミングを計ってポンと放った。靴下は綺麗な放物線を描いて探偵の手の中に落ちた。
「ナイスピッチング」
探偵が笑ったのが嬉しくて私も笑ってしまう。
私は一足先に洗濯物をたたんでいく。しばらくすると和寅さんも和室に入ってきて、アイロンかけをはじめた。二人でやれば終わるのはあっという間だ。
「助かりましたよう」
たたんだ衣類を箪笥やクローゼットに入れたり、タオルを洗面所に運ぶのを手伝う頃には探偵もご飯を食べ終えていて。
「美由紀さん、お茶を用意しますんで、座って待っていてください。美味しいケーキを貰ったんです」
「はーい」
素直に喜んでソファーに腰を下ろすと、隣に座っている探偵は子供のお手伝いを褒めるように私を見てニコニコと笑った。
「いつも手伝っているの？」
「いつもじゃないですけど。私の方が手伝わせてもらっているんです」
探偵の手が伸びてきて、私の頭をくしゃりと撫でた。
「ありがとう」
「……」
いえ、ともごもご呟く私を、探偵はくすりと笑った。
もう手伝わなくていいよ、と云われたらどうしようと思っていたけど、探偵からは何も云われなかったので私はホッと息を吐いた。
和寅さんがお茶の用意をしてくれるまで本を読もうと手に取ると、探偵が私の顔を覗き込むように首をかしげた。
「女学生君、今年の冬はどうするの？」
「冬？ 冬休みは二十五日からなので、その日の夜には実家に戻る予定ですけど」
「どこかに行く予定でもある？」
「どこかに……」
私は首をかしげた。
「特には」
「じゃあ、温泉に行こうか」
「温泉？」
「そう。僕と二人で」
行きません、と私が云うと、探偵は口をへの字にしてソファーの背にもたれた。
「京極たちも一緒だよ。行くかい？」
古書肆も一緒ということは、当然、千鶴子さんも一緒だろう。敦子さんも一緒かもしれない。
「行きたいです」
即答すると、探偵はニヤリと口角を上げて私を見た。
「僕と？」
「探偵さんたちと、行きたいです」
「僕と、と云いなさい」
答えずにいると、探偵は私の頬を右手でムニッと抓んで「可愛くないぞ」と云った。私は笑う。
「いつからですか？」
「二十六日から二泊三日」
「わかりました」
いくらくらいかかるのだろう。貯金しているお金で足りるかな、と考えていると、和寅さんがお茶の用意をして現れた。
「私や益田君も行くんですよう」
「楽しくなりますね！」
こういう旅行に誘ってもらえることが嬉しい。
きっと、後で知ったら少なからず寂しく思ったに違いないから。
「探偵さん」
早速、ケーキを口に運んでいる探偵に私は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「ん？」
探偵は、何がありがとうなのかまるでわかっていないようで、きょとんと首をかしげた。
「何が？」
「旅行、誘ってもらえて嬉しいです」
「ああ――」
なんだそんなこと、と云いたげな顔で探偵は目を細めると、ふふと笑って私の耳に口元を寄せた。
「婚前旅行だ」
雨の音にかき消されそうなくらい小さな囁きは、ケーキの匂いに包まれて甘く聞こえた。
了
【陽だまりの恋のお題／02】
2009.01.16