榎木津×美由紀 ※恋人設定。
『はなさないでね』
いつもの土曜日。
でも、その日はなぜか探偵の機嫌が悪かった。
薔薇十字探偵――榎木津礼二郎の場合、機嫌が良いか悪いか、常に極端な二通りの状態しかないので、結局は二分の一の確率でしかないのだけれど。
口をへの字にして、怒っているというよりは真剣に何かを考えている風だったが、いつもは起きていたら元気に私を迎えてくれる人が、むすっとしたまま大きな机に座っているのだ。
私の記憶を見てから機嫌が悪くなることはあっても、その前から機嫌が悪いことはあまりない。
――いったい、何があったのだろう。
父親を通じて断れない依頼を受けることになってしまったのだろうか。
それとも好きなプロ野球チームが昨夜負けてしまったとか？
歯が痛い、という可能性もある。
益田さんはとっくに避難という名の調査に出かけているらしく、和寅さんの救いを求めるような視線に私は苦笑を返した。
探偵さん、と声をかける。
お茶と珈琲どっちがいいですかと聞けば、お茶、と返ってきたので私はホッとした。無視されないだけ、まだ大丈夫。少なくとも、私に対して怒っているわけではない。
台所に下がって「お茶を」と伝えると、私は和寅さんに首をかしげた。
「何かあったんですか？」
「さあ……」
和寅さんもわからないと云う。
「起きたときから機嫌が悪いんですよう」
触らぬ神に祟りなし、とはよく云ったものだ。
「私、帰った方がいいかなあ……」
ぼそりと呟けば、いやいやいや、と和寅さんが真剣な顔で手首を振った。
「美由紀さんが来て、あれでも落ち着いたほうなんですぜ」
私が帰ったらさらに機嫌が悪くなるのは目に見えている、と和寅さんは云う。そうだろうか、と私は首をかしげた。
とりあえず、と和寅さんが云うので、何か方策があるのだろうかと思っていたら、彼はエプロンを外して財布を手にとった。
「私は買い物に行って来ますので、美由紀さん、後はよろしくお願いします」
「そんな！」
私の非難もなんのその、和寅さんは探偵に買い物へ行ってくる旨を伝えると事務所を出て行ってしまった。
カランカランという入り口の鐘の音がむなしく響いた。益田さんみたいに逃げる術のない彼が、私の登場によってようやく逃げるチャンスを得たのだから責めるのはかわいそうだけど。
こんなところに残されても！ と私は泣きそうになった。
和寅さんの裏切り者〜！！
いや待て、探偵の機嫌が良くなるような夕飯の食材を買ってくる、という可能性もある。なんとか前向きにそれを期待しつつ、沸騰したヤカンの火を止めて急須に注ぐと、余ったお湯を湯飲みに入れた。
程よく蒸らしたところで、湯飲みに入っていたお湯を捨ててからお茶を注ぐ。
「お茶です。熱いから気をつけてくださいね」
そう云って、お盆から机に湯飲みを置いた。けど、すぐには離れない。前を見据えたままの探偵は人の話をちゃんと聞いているようには見えないし、いつものように無茶な飲み方をしたら大変だ。火傷をする前に、もし乱暴に掴んで口に運ぶようなら慌てて止めるつもりだった。
険しい顔をした探偵からは、おそらく私の腰くらいしか視線に入らないだろう。いつまでも側にいる私にやっと気づいたのか、ふ――と探偵の視線が私に向かった。
「女学生君」
探偵が驚いたように目を見開いた。
「いつ来たのだ」
「……」
えっと、と私は首をかしげた。まさか、そんな反応が来るとは思わなかった。
「十分くらい前ですけど」
「ああ……そうか、そうだったな」
探偵の中では、すっかりいない人になっていたらしい。なんだか肩透かし。
目の前のお茶にも今気づいたらしく、「君が入れてくれたのか」などとボケたことを云うので、私は先ほどと同じ言葉をもう一度口にした。
「熱いので気をつけてください」
うん、と云って探偵は湯飲みに手を伸ばした。軽く触れて、本当に熱いとわかったのだろう。冷えた手を温めるように両手で掴んで、ほうと息を吐いた。ゆっくりと湯飲みを口に運んで、ずず、とすする。
湯飲みを机に戻すと、表情が穏やかになって、先ほどの荒立った気配が消えていた。
うわ、と思う。お茶でも飲んで少しは落ち着けとはよく云う言葉だけれど、お茶ってすごい！
私がひとりお茶の効能に感激していると、探偵が私を見上げて手招いた。
なんですか、と大きな机を回って真横に来ると、探偵は椅子を回して私に向き直った。
右手を「握手」というかのように差し出されたので、私はお盆を机に置いて、差し出された手に右手を重ねた。
湯飲みに触れていたからだろう。探偵の手はすごく熱い。
握手？
ではないらしい。じっとしたまま動かないので、起き上がらせて欲しいという意味かな、と私は探偵の手を引いた。
ぐい、と重い体が椅子から上がったので手を離すと、そのままの勢いで探偵が私に覆い被さってきた。
「探偵さん？」
腕を背中に回してぎゅっと抱きつかれた。
なんか様子が変だ。
熱でもあるんだろうか。
「体調が悪いんですか？」
「……うん、そうだな。体調が悪い」
そういうことにしておこう、というような云い方だった。
「だったら、布団に入って寝てください」
冷たく云い放つと、拒否するように探偵は強く私を抱きしめた。でも、その強さは乱暴な強さじゃなくて、何かにすがりつきたいような、そんな弱さを感じられる力加減で。
思わず突き放すことをためらってしまう。
「探偵さん」
本当にどうしたんですか。
私は彼の背中に腕を伸ばして、彼を包むように抱いた。
探偵が、大きく息を吸ってゆっくりと吐く。まるで緊張を解くかのように。
「夢を見た」
囁くような声には、真剣な色が混ざっていた。
「夢？」
「君が幸せになる夢」
「……」
――は？
ぱちぱち、と私は瞬いた。
私が不幸になる夢を見て難しい顔をしていたのならわかるけど、幸せになる夢を見て不機嫌になるというのは、どういうことなんだろう。
ええと。
「喜んではくれないんですか？」
「喜んでいたよ。僕は笑っていた」
「……」
よかった、と思えないのは、彼の声が自嘲するように響いたから。
探偵はどんな顔をしているのだろう。絞るように吐き出す声からは、何もわからない。
「君が他の男の隣で笑って、他の男の手を取って、幸せになるのを見ながら、良かった良かったと馬鹿みたいに騒いで笑っているんだ」
「――」
――私が。
探偵さん以外の人の隣で笑う？
幸せになる？
まるで想像ができない。
「夢だったんでしょう？」
「夢だよ」
夢だった、と探偵は云った。
「でも、本当に起こることかもしれない」
「探偵さん」
むく、とわけのわからない苛立ちが沸いてくる。
探偵は何が云いたいのだろう。まるで、その方が私は幸せになるのだとでも云うかのよう。
反論しようと身体を離そうとしたら、それより先に探偵が私を強く抱き寄せた。
「……が、」
「え？」
「胸が痛くて。――痛くて痛くてたまらないのに、僕は笑っているんだ」
探偵は、言葉を絞るように吐いた。
いつまでもいつまでも笑って。
滑稽なほど笑って。
壊れた玩具のように笑って。
「目が覚めたら、君はいなくて、夢だったのか、現実だったのか、それすらわからなくて」
それで、こんなに泣きそうな声をしているの？
「夢だったとわかっても、君の笑顔が頭から離れない」
――だから機嫌が悪かったのか。
私は大きく息を吐いて、囁いた。
「いますよ。ちゃんと、探偵さんの側に」
それは夢です、とはっきりと云う。
ちゃんと伝わるように。
「いるじゃないですか、ここに」
これからも、ずっと。
「探偵さんが側にいてもいいって云ってくれるなら、ずっと側にいます」
「でも、他の男の方が、君を幸せにするかもしれない」
探偵にしては珍しく後ろ向きで弱気な発言だった。でも、だなんて。
夢でよかったと思うだけでいいじゃないか。
「それを……」
いや、そんなことを、と私は思う。
「朝からずっと考えていたんですか？ 探偵さんじゃなくて、他の男の人のほうが私を幸せにするかもしれないって」
「……君が幸せになるなら、その方がいいのかもしれない」
「私のことを考えてくれるのは嬉しいですけど、それってつまり、私を手放そうと思った……って云い方は変だけど、そういうことですよね？ 探偵さんはそれで平気だと思ったんだ。私が他の男の人の手を取って、その人と一緒に暮らして、楽しそうに笑って、幸せならそれでいいって。そのほうがいいって」
私は笑った。
「探偵さんが云うんだったら、きっとそうなんでしょうね」
私の言葉に、探偵が怯んだのがわかった。
だって、と私は言葉を続けた。
「探偵さんがそう思っているんですもん」
私の気持ちなんてまるで考えてない。
私の幸せ？
なんだそれは！
「胸が痛い」
探偵が呟く。
「胸が痛い！」
泣きそうな声で探偵が叫んだ。
「痛い！」
痛みを堪えるように私を抱きしめる。
その力は本当に強くて、先ほどまでの遠慮がまるでない。
「探、偵さん」
息が苦しい。骨がすごく痛くて、呻いてしまいそうだった。
痛い、と云いそうになる。
でも、一言でもそれを云えば探偵は私を離してしまうだろう。
私は我慢した。
だって、態度が私のことを絶対に離すものかと云ってくれている。
離して欲しくなかった。むしろ、もっともっと、強く抱きしめて欲しい。
こんなに苦しいのに、何で私は笑いたくなっているのだろう。
嬉しいのだろう。
探偵さん。
ねえ。
どうして？
「胸の、痛みがなくなる薬をあげましょうか？」
私の言葉に、ふ――と腕の力が弱くなったので、その瞬間を狙って私は囁いた。
「僕の」
たったの三文字の薬。
「僕の、って云えばいいんです」
探偵さん、と笑うように囁いた。
「ほら、云って」
「……僕の」
「もっとです」
「僕の」
僕の、と探偵が口にするたびに、ゆるゆると腕の力が弱まっていく。それは、胸の痛みが取れているということだ。
私は、離れていく身体を追うように抱きついた。
「いつもみたいに、女学生君は僕のだって云って、私の隣にいる人を殴ればいいんです」
「殴っていいのか」
「だって、殴りたいと思ったんでしょう？」
「思った」
「気に入らないと思ったんでしょう？」
「思った」
「我慢して笑っていたんですか？」
「……」
私は笑う。
「云いたいことを我慢して、やりたいことも我慢するから、胸が痛くなるんです」
「……そうか」
探偵はポツリと呟いた。
そうだな、と。
「……僕のだ」
「はい」
私は抱きしめ返してくる腕に、よかった、と思う。
「僕のだ」
「はい」
だんだんと強くなる言葉。
何度も何度も、確認するように私たちはその言葉を繰り返した。
何度も何度も、優しい口付けを交わして。
私は囁いた。
探偵さんのです。
だから、離さないでください。
※
いったいどこまで買い物に行っていたのか、夕方になって和寅さんは益田さんと一緒に帰ってきた。
「ただいま帰りましたぁ……」
恐る恐るといった様子で事務所のドアを開け、中を覗く。
「遅い！」
探偵の雷が落ちた。
「何をやっていたのだ！ バカトラにバカマスのバカバカコンビが！」
大きな机に座った探偵の不機嫌そうな一声に、二人は嬉しそうな顔をして駆け寄ってきた。
「先生！」
「榎木津さん！」
朝とは違うとすぐにわかったのだろう。嬉しいのはわかるが、二人とも「もっと叱ってください」と云いたげな表情は正直どうかと思う。
探偵は「ふん！」と鼻を鳴らした。
「ご飯！」
すっかりいつもの状態だ。
お腹がすいたと主張する探偵のために和寅さんが台所に行くと、益田さんはソファーに座っている私の向かいに腰を下ろした。
「お帰りなさい」
「美由紀ちゃん、ただいま」
益田さんの笑いを堪えるような、口角を上げただけの無言の「ありがとう」に、私も無言で「どういたしまして」と返す。
探偵が立ってお手洗いに消えると、早速、益田さんがケケケと笑った。
「美由紀マジック炸裂だね」
「なんですか？ それ」
「対榎木津さん用最終兵器。――それで」
益田さんは興味津々と云った様子で身を乗り出してくる。
「どうして機嫌が悪かったの？」
「夢を見たそうです」
「夢？ 夢見が悪くてあんなに機嫌が悪かったわけ？ ――まったく、はた迷惑な人だなあ……」
――本当に。
でも、きっとまた同じ夢を見ても今度はきちんと撃退できるだろう。
私はくすりと笑った。
何しろ、探偵には最強の呪文があるのだから。
了
【古風気味な百の題目／032】
2008.01.28