榎木津×美由紀
『半分』
目が覚めると、僕は猫になっていた。
ふわふわの毛、脚は白く、細く長い尻尾は栗色の縞が入っている。
肉球はピンク。爪を立てて背伸びすると、全身の骨を鳴らしたかのようにすっきりとして気持ちが良い。
地面は近くて広い。身体は軽く、歩く足も軽快だ。四肢でしっかりと地面を蹴っている。人が四つんばいになっているのとはまるで違っていた。ふむ。これはなかなか面白い。
見上げた空は青く、こんなにも遠い。
僕はこの状況が気に入り、楽しくて笑い出したくなってしまう。
なぜ猫になったのかなど、どうでもいいことだ。
「探偵さん？」
清涼な声がして、耳が動いた。サクリと草を踏む音がして、美由紀の長い足が見える。
「探偵さん」
僕を探す少女。
――ああ、そうだった。美由紀と散歩して来た公園で、芝生の綺麗な場所を見つけたのだ。昼寝にちょうどいいと休んでいたことを思い出す。僕が横になると、美由紀は少しそのあたりを見てきますね、と歩いて行ってしまったのだ。
「探偵さん……どこに行ったんだろう」
女学生君女学生君、僕はここだよと声をかけるが、ニャアニャア、ニャー、としか言葉にならない。なんて不便なんだ。
美由紀は僕に気づいて相好を崩した。
「猫さん」
そうだ、猫だ。
美由紀の脚に身体を寄せると、彼女は楽しそうに笑って膝を折った。細くて柔らかい手が僕の頭に触れ、嫌がらないと分かると、頭や喉を掻く様に遠慮なく撫でてくる。彼女に撫でてもらうのはなんて気持ちがいいのだろう。
美由紀は首をかしげた。
「探偵さんを見なかった？」
「ニャー！」
「ここで寝ていたんだけど」
「ニャー！」
ここにいるじゃないか！
ここだよ、ここ！
「お手洗いに行ったのかなあ」
何度鳴いても、美由紀には届かない。僕の方を見ろと訴えても、美由紀が探しているのは猫ではなく、人間の男なのだ。
美由紀の顔がだんだんと不安そうに変化していくから、余計に焦った。
「帰っちゃったのかな……」
漏れた溜め息。美由紀はしばらく考え込むようにじっと前を見ていたが、すっと立ち上がると、遠くの方を見てそのまま立ち尽くした。
何を考えているのだろう。美由紀は小さく息を吐くと再び膝を曲げ、芝生の上に腰をつけると、膝を抱えて顔を伏せてしまう。――泣いているのだろうか。
何も出来ないでいる自分がもどかしく、体育座りのままうつむいている美由紀の周りをただぐるぐる回って鳴いていると、小さな笑い声がした。
「どうしたの、お前」
顔を上げた美由紀がくすくすと笑っている。
「慰めてくれているのかな」
ぽんぽん、と右手で自分の右隣を叩いた。
「おいで」
優しい声に素直に従うと、美由紀はふわりと笑った。
僕は彼女の右横で止まり、膝の上に乗ろうと前脚を彼女の腹と腿の間に無理やり割り込ませた。
美由紀は苦笑して脚を組み替える。
「なんだか探偵さんみたい。膝の上がいいの？」
美由紀の膝の上で身体を丸くすると、先ほどのようにそっと撫でてくれた。これが僕ではなく別の猫であったなら、ムッとして彼女の膝から追い出していただろう。ここは人間であっても猫であっても、僕のものなのだ。
気持ちがよくてだんだんと眠たくなる。毛を撫でる仕草が、膝枕をしているときに僕の髪を撫でている仕草と同じだった。
「思い出して迎えに来てくれると思う？」
何のことだろうと思ったが、すぐに自分のことだと分かった。美由紀は僕が彼女のことを忘れて帰ってしまったと思っているのだ。
僕はむくっと起き上がって彼女の膝から飛び降りた。
「ニャー！」
「え、なに？」
「ニャー！！」
「え？」
僕はここにいると主張しても彼女には通じない。そうだ、と思いついて池の淵へと向かう。こういう場合、鏡には真実の姿が映るものと相場が決まっている。
池の中を覗きこむと、ほら、やっぱり。人間の僕が映っていた。
「ニャー！」
見て見て！ 僕は必死に訴えた。
美由紀はくすりと笑って腰を上げた。
「何かいるの？」
よし、と思ったときだった。ガク、と後ろ足がすべり、僕はあっという間に池の中へと転がり落ちた。
ボチャン、という音と同時に全身が水に浸かる。
あれ？ 不思議と冷たくない――と思ったのは一瞬。毛に守られた全身が冷たい水に包まれて、波が来るようにゾゾゾと鳥肌が立った。いや、猫なのに鳥肌なんておかしいな。それとも、こういうときでも鳥肌というのか？ 混乱していると、どうでもいいことを考えるらしい。
僕は暴れた。
視界が水に覆われ、美由紀が慌てて駆け寄ってくる姿が見えた。
身体をむんずと掴まれて、僕は池の中から救い出された。
助かった……！
だが、今度は風によって毛に滲みた水が冷え、寒さに身体が震えて止まらない。
そして――。
目を丸くして驚く美由紀の顔が見えた。
――ん？
どうして救い出してくれた少女が目の前にいるのだろう。彼女が目の前にいるということは、僕の身体を掴むのは誰だ――？
そう思っていたら、頭上から良く通る男の声がした。
「どちらも濡れてはいるがね。毛艶もよく血統書つきの元気な猫と、病持ちでひどく手のかかる猫」
京極の声だった。僕を片手でつかんで、池の上に浮いている。
「君の猫はどちらだ」
ああ、そんな童話があったな。
池の中から現れるのは女神、掬われるのは猫ではなくて柄杓か斧だったような気がしたけれど。
「それとも――」
京極は笑った。おそらく、ニヤリと口角を上げて。
「どちらでもなく、普通の猫かね」
美由紀の視線が京極と、僕と僕――。右の目で美由紀を見ている元気な猫と、左の目で美由紀を見ている病持ちの猫に向かった。
猫は、どちらも僕だった。
美由紀は困ったような顔で僕たちを見つめている。
美由紀があの童話を知っているならば、どちらも選ばずに、結局は三匹の猫を手に入れるはずだ。
――でも。
これは確信。
おそらく、普通の猫は僕じゃない。
――美由紀。
――美由紀。
僕は必死に訴えた。「僕」を選んでくれることを。
美由紀は「決めた」という目つきで口を開いた。
「探偵さん」
彼女の声に目を覚ませば、美由紀が僕の顔を覗き込んでいた。
「もう帰りましょう。暗くなってきちゃいました」
「……女学生君」
「はい？」
なんですか、と笑いかけてくる少女に、ほうと息を吐いた。
あの水の冷たさは、夢というにはあまりにもリアルで。
真冬の海。そうか、あれは戦時中に体験したのことのある感覚だ。
「夢……」
人の言葉が話せることにホッとした。
人の姿であることに。
猫になってみたいと思ったことは何度もあるが、人でよかったと思ったのは初めてかもしれない。
横になったまま彼女を見上げた。
「美由紀」
名前を口にすれば、美由紀の頬がパッと赤く染まった。
「僕を選んだ？」
「え？」
きょとんと瞬いた少女が、あ、と呟いて急に驚いたように両手で自分の口を覆った。
「やだ……！」
恥ずかしそうに、耳まで真っ赤になっている。
――やだ？
いったい何がだ。
「探偵さん、夢まで見えるんですか！？」
「夢？」
「だって、今、選んだって」
何のことだ。
「君の夢？ 僕の夢じゃないのか」
「え？」
「猫になって、池に落ちた」
美由紀は首を横に振っている。
「違います。違います――。猫は出てきません」
僕は彼女の頬に手を伸ばした。
「真っ赤になって、どんないやらしい夢を見ていたのだ」
「な……！ 違いますっ！」
美由紀が僕の手を押しやった。
「もう、そういうのじゃないですから」
「そういうのって？ 僕に見られたら困るのだろう？」
「そうだけど……！ そうだけど違うんです」
困ったような怒ったような、照れたように頬を染める姿が可愛い。
ふふ、と僕は笑った。どうやら彼女も何か選択を迫られるような夢を見たらしい。彼女をからかうのをやめて、上半身を起こした。
「どんな夢？」
美由紀はためらっていたが、彼女の髪に枯れ葉が付いているのに気づいて手を伸ばすと、「あ」と口を開いて云い訳のように語りだした。
「これは、その、探偵さんがあまりにも気持ちよさそうに寝ているから、つい私も一緒に寝ちゃって……」
「ん？」
別にそんなことはかまわないが。
――ああ。
「それで夢を見たのか。どんな？」
「……」
聞いても美由紀は答えない。
美由紀、と急かすように名を呼べば、彼女はどんな表情をしていいのか自分でもわからないという顔で、次いで怒ったように僕を睨んだ。
いきなり名前を呼ぶのは卑怯だと、彼女の表情が物語っている。
僕はニヤリと笑った。
「美由紀、云って」
「……もう」
美由紀は観念したような息を吐いた。
「探偵さんが池に落ちる夢です」
「僕が？ 人間の？」
「は？ ええ、もちろん」
「それで？」
「慌てて駆け寄ったら、池の中から千鶴子さんが現れたんです」
僕は瞬いた。
「――千鶴さんが？ 京極じゃなくて？」
こくん、と美由紀は頷いた。
「千鶴子さんでした。――千鶴子さんはその、タイプの違う二人の探偵さんを従えていて」
なるほど。
「君の探偵はどちらなのかを問うのだな」
「はい」
ははは、と僕は笑った。
美由紀の夢の中では、僕は人間のまま、女神の役割は千鶴さんが担ったらしい。
「それで君はどっちの僕を選んだのだ。白？ 黒？ それとも赤、青？ どっちもちがった？」
美由紀は恥ずかしそうに頬を染めた。その表情からは、どんな選択をしたのか想像がつかない。最終的に、彼女の手にはどちらの僕が残ったのだろう。
それとも、僕ではない誰かが残ったのか。
もし目が覚めずにいたら、僕の夢の中で彼女はどんな選択をしたのだろう。
「選んだりしません」
美由紀の言葉に驚いていると、彼女はまっすぐな目を僕に向けてきた。でも、すぐに恥ずかしそうに目をそらしてしまう。
正直、言葉を失った。
美由紀が選ばない、という選択肢は想像しなかったから。
美由紀は立ち上がると、残された僕に手を伸ばした。右手を伸ばして彼女の手に重ねると、美由紀は両手で掴んで力強く引いた。
ぐい、と身体が持ち上がって美由紀の目の前に立つと、彼女のつむじが綺麗に見えた。
細い肩。
手は握ったまま、密接しているせいか彼女の表情はわからない。
握った手だけが熱い。
「選んだりできません」
「そうか」
少し残念に思う。彼女がどんな選択をしたのか知りたかったから。
いや、知らなくてよかったのかもしれない。
だって、と美由紀は呟いた。
「だって、それが探偵さんなら、どんな探偵さんだって、全部私のだから」
「――」
「だから、選ぶことなんてできません」
美由紀の言葉に驚いて、思わず口が開いた。
「……なるほど」
だがそれは、選ばなかったのではなく、選べなかったのでもなく、ちゃんと選んだというのではないのか？
握った手が熱かった。
僕は破顔して、美由紀の額の生え際に口付けた。
「うん」
それは、君が正しい。
「じゃあ、僕は君のものだ」
彼女の耳にそっと囁けば、美由紀の肌がさらに赤く染まった。
ああ、なんということだろう。
笑いがこみ上げてきて、冷えた身体が芯から温かくなっていくのがわかる。
美由紀が手を離して帰ろうとするので、駆け寄るようにして身をかがめると、彼女の脚をすくって細い身体を抱き上げた。
「わっ！」
「うわははは！」
「探偵さん！」
真っ赤になった美由紀は降ろしてと訴えるが、僕はそれを無視して歩き出した。
「探偵さん！」
「なに？」
「降ろして！」
「なんで？」
今すぐ走り出したいくらいなのに。
こんな愉快なことがあるだろうか。
「そうだ、一緒に京極の所へ行こう！」
「は！？」
きっと、あの二人も夢を見ているに違いない。美由紀が選んだ答えを知りたがっているだろう。
「今からですか！？ 私、もう帰らなくちゃ……！」
「じゃあ、明日だっ！」
「明日は学校です！」
「じゃあ、来週」
再来週でも、その先、いつだっていい。
夢の話を伝えたら、京極はなんと云うだろう。きっと千鶴さんは微笑むに違いない。
「探偵さん、降ろして」
「やだよ」
云って、僕は彼女を抱えたまま走り出した。
了
【古風気味な百の題目／010】
2009.02.03