榎木津×美由紀
『胸が高鳴る』
くしゅん、と小さなくしゃみをして軽く鼻をすする。
「美由紀さん、風邪ですかい」
台所から顔を出した和寅さんに、私は首を横に振った。
「鼻がちょっとむずむずしただけですから」
「風邪の引き始めかもしれませんぜ。今、暖かいものを用意しますよう」
すみません、と頭を下げると、またくしゃみが出そうになって私は口を押さえた。
ぷちゅん。
喉で押さえたら、変なくしゃみが出た。続いて、二度、三度。
これは和寅さんの云う通りかもしれない。今日は早く帰ったほうがいいかも、と思った時だった。
バタン！ とものすごい音を立てて寝室のドアが開いた。
「風邪だなッ！」
風邪だ風邪！ と云いながら、探偵――榎木津礼二郎が歩いてくる。
探偵は持っていた毛布を広げると、ソファに座る私の身体を包むようにかけた。
「暖かくしなさい」
探偵は目線を合わせてにっこりと笑う。
最初のくしゃみが聞こえてしまったのだろう。探偵の聴力は、尋常の人よりも良い。
今まで探偵を包んでいたからか、ふわふわの毛布は暖かくてちょっとだけ探偵の匂いがした。それがなんだか嬉しくて温かくて、笑いたくなる。毛布で口元を覆うと、私は顔半分だけ出して探偵に微笑んだ。
「ありがとうございます」
「ん」
にっこりと笑った探偵は、私の隣に腰をおろした。
「寒くない？」
「大丈夫です」
と、云ったそばから、私は探偵から顔をそむけてまたくしゃみをした。
「くちゅ」
「うわははは！」
探偵は高笑い。私は恥ずかしくて真っ赤になってしまう。探偵は「可愛い！」と叫んだ。
「可愛いくしゃみだ！」
「可愛くないです」
ふてくされたような云い方になってしまうので、余計に可愛くない。それなのに、探偵にかかると何でも「可愛い」になってしまうのだ。
「僕が可愛いと云ったら可愛いのだ！」
探偵は、私の背中に腕を通すとそのまま腰に片腕を回して私の身体を引き寄せた。
「うわ！」
軽い浮遊感とともに、私の身体はあっという間に探偵のひざの上。
「探偵さん！」
「こうすれば暖かくなるぞ」
暖かく、というより体中の血か沸騰して熱い。
ふふ、と満足げに笑う探偵の両腕が毛布の上から私の身体にしっかり回されて、暴れることも逃げることもできない。
「探偵さん」
私の声は泣きそうだ。
身体の前面は毛布に包まれているが、背面は探偵の身体に密接しているのがどうしようもなく恥ずかしい。
――恥ずかしくて死にそうなのに、探偵は私の動揺などまったく気にもしていないのだ。
「僕をソファと思えばいい」
「思えません！」
「暗示だよ暗示」
僕はソファ、僕はソファ、と探偵は私の耳元でささやいた。やーめーてー！
顔が真っ赤になって、本当に泣きそうになった。
「ほら、暖かくなってきたぞ！」
それ、絶対に意味が違う。
「何をやっているんですかい、まったく」
湯気の立ったカップを乗せたお盆を持って、和寅さんが呆れてる。
「美由紀さん、熱いんで気をつけてくださいね」
テーブルの上に置いてくれたのはホットレモンだ。事務所の中に絞ったレモンの匂いが広がっている。
先生、と和寅さんは探偵をにらんだ。
「美由紀さんが嫌がっているじゃないですか」
「女学生君は嫌がってなどいないぞ」
和寅さんの目が疑わしげに探偵を見下ろした。
「そう思っているのは先生だけでしょう。美由紀さんは泣く寸前ですぜ」
「これは照れているだけだ」
「……！」
ち が う！
否定するようにばたばたと足を動かせば、探偵はうわはははと笑った。
「暴れると風邪を引くぞ」
暴れると怪我をする、とはよく云うけど、風邪を引くなんて聞いたことがない。
でも、くしゅん、と再びくしゃみが出て、足元から背筋に悪寒が走った。ブルッと震えて大人しくなった私に、探偵は笑った。
「だから言ったじゃないか」
探偵はささやくと、毛布で隙間を埋めるように私を包んで、背後から覆うように抱き寄せた。
「おとなしくしていなさい」
その優しい物言いと腕に、私は風邪とは違った熱を覚えて真っ赤になった。
※
くしゅん、と小さなくしゃみがもれて、私は慌てて口をふさいだ。
今のは積んであった本の埃を叩いたのが原因で、前のように風邪の初期症状でもなんでもない。
でも、寝室の中で物音がしたかと思うと、すぐにバタン！ と大きな音がして扉が開いた。
「また風邪だな！」
嬉々として見えるのはどうしてだろう。
「違います！」
言いながら、私はソファから立ち上がって逃げの体制に入った。なんであんなに小さなくしゃみが隣の部屋で寝ている人の耳に聞こえるんだろう。耳がいいにも程がある。
探偵はまた毛布を持っている。
「何で逃げるのだ！」
「だって、風邪じゃないですから！」
「つまり風邪なら抱いてもいいということだな！」
「なんでそうなるんですか！」
「そういうことじゃないか」
応接のソファを挟んで、私と探偵はにらみ合った。前は油断したけれど、今回は断固阻止だ。
私は探偵の手から逃げるように、右に行ったり左に行ったりとうろうろ。
探偵が心配してくれているのは分かるし、とてもありがたい。でも、心配＋抱擁の後者は明らかに歓迎できるものではない。
「お二人とも、何をしているんですかい」
呆れたように和寅さんが声をかけてきた。
「先生も、いつまでもそんな格好でいたら風邪を引きますぜ」
そんな格好、の探偵は、裸足にズボン、上着はすそを出したままの白いワイシャツ姿だ。
「探偵さん、本当に私は大丈夫ですから」
探偵は不機嫌そうに軽く口をへの字にした。
「またくしゃみをしたらギュウだぞ。ギュウでギュウでギュウだ！」
はい、とでも言わなければ、探偵は引かないだろう。仕方がないので、ため息混じりに「わかりました」と私が云うと、よし、と探偵はうなずいた。しかし、その顔がゆがむ。
「ふ……」
ぶはっくしゅん！
心臓にまで響きそうな大きなくしゃみ。
ずるる、と鼻をすすって。
「探偵さん！」
「先生！」
ぶえっくしょん！
続いて二度、探偵は豪快なくしゃみをした。
確かに、探偵のこれを聞けば私のくしゃみは可愛い部類になるだろう。
とにかく、慌てたのは和寅さんと私だ。
「ああ、もう、先生、早く温かい格好してくださいよう〜！」
和寅さんが着替えを取りに寝室に入り、私は探偵が持っていた毛布を広げて、背中からマントのように彼にかけた。
「私より探偵さんの方が風邪引いちゃうじゃないですか！」
探偵はさっきまでの勢いはどこに行ったのか、毛布を肩にかけたまま、どこか虚ろな目をしている。
寒い、と探偵はつぶやいた。
「そんな格好をしているからです」
暦の上ではすでに春。だが、まだ気温は低く、肌寒い。外へ出るにもコートは必須。しかも、下手をすると家の外より中のほうが寒かったりするのだ。
探偵は鼻をすすりながらソファーに腰をおろした。
私は和寅さんが持ってきた厚手の靴下を探偵にはかせてあげると、セーターを探偵に着せた。和寅さんは暖かい飲み物の用意をしている。
「服が冷たい」
「すぐに暖かくなります」
「女学生君」
「待ってくださいね」
私は首が寒そうな探偵にスカーフかマフラーを、と寝室に入ってクローゼットの中からマフラーを取り出した。事務所に戻ると、探偵の首に巻いて、毛布をクロスさせて探偵を包んだ。それなのに、探偵は毛布を両手で広げてしまうのだ。
「女学生君」
「だめです、暖かくして」
私は開いた毛布をもう一度戻す。でも、再び毛布は開いた。
「女学生君、寒い」
「毛布を広げるからです」
当たり前なことを云わないで、と思っていたら、探偵はまっすぐに私を見上げて、
「来て」
と云った。
「は？」
着せて？
「コートでも持ってきましょうか」
「ちがう。ここ」
「ここ？」
探偵が何を云っているのかまるでわからない。探偵もそれがわかったのだろう。
「ここに、来て」
と云った。
「前みたいに」
「前？」
怪訝に首をかしげたのは一瞬。すぐに前回のことだとわかった。
「何云ってるんですか」
「寒いから、来て」
「そんなに寒いなら、早く布団に入って寝て下さい」
「来て」
普通の声音で、探偵はただ求める。
いつもは強引に事を運ぶくせに、こういうときだけ私の許可を求めるのはずるい。
私が否といえば、探偵はそれであきらめるだろう。――それはわかっていたけれど。
ぶえっくしょん、と探偵は再び大きなくしゃみをした。
ああもう……！
私は小さく息を吐いた。
「……帰るまでなら」
「うん」
私が右手を差し出すと、探偵は嬉しそうに笑ってその手を取った。
指先を握られ、軽く引き寄せられた。
どきどきと心臓が高鳴って、握った指先からそれが伝わってしまいそう。
意識したらだめ、と思う。
探偵は懐炉を求めただけなのだから。
でも――。
「――やっぱり」
だめ、と。
私が手を引いて逃げようとすると、それより早く探偵が上着の裾をつかんで引っ張った。
「うわ！」
ぽすん、と私は探偵のひざの上に腰から落ちてしまう。
「探偵さん！」
「帰るまでならいいって云ったぞ」
「やっぱりだめです」
「もう捕まえた」
私の身体を包むように、毛布が前を覆った。
「――ッ」
ぎゅ、と強く抱きしめられて、私は息を止めた。
強いのに、まるで大切なものを守るようにやさしい腕。
心臓ばかりがバクバクとうるさく高鳴っている。
背中から伝わる探偵の熱と鼓動に混乱する。
求めているのか、与えているのかわからなくて、胸が、痛いほどに苦しい。
「探偵さん――」
「――き」
探偵から漏れた小さな吐息は、確かに「美由紀」と私の名をささやいた。
お願い。
それ以上何も云わないで――。
「探……て」
「ほら」
ね、と楽しそうに探偵がささやいた。
「もう逃げられないぞ」
了
【恋する純情な想いで５のお題／01】
2009.03.26