榎木津×美由紀
『水面の月』
「女学生君」
散歩の途中でいきなり立ち止まった私に気づいて、探偵が私を呼んだ。
「どうした？」
私は小さく首を振った。なんでもないです、と。
探偵が問うように首を傾げたので、私は笑顔を返して小走りで彼の隣に並んだ。
「行きましょう」
三歩進んで、私は振り返った。
「探偵さん」
隣にいるはずの探偵が、立ち止まったまま動かないのだ。その視線は、さっきまで私が見ていたところに向かっている。
古書店街の裏道にある普通の一軒家。その縁側で、五十代くらいの夫婦が日向ぼっこをしていた。夫は妻のひざを枕に寝ているが、肉付きがよく恰幅の良い婦人は幸せそうに笑っている。
「探偵さん」
私は戻ると探偵の袖を引いた。
「あまり見たら失礼です」
「君が最初に見ていたんじゃないか」
「そうですけど」
ばつの悪い思いをしながら私は彼の手を取ると、行きますよ、と引いた。探偵は素直に歩き始めてくれたけど、
「女学生君も楽しい？」
「は？」
振り返ると、探偵がまっすぐに私を見ていた。
私は思わずきょとんと瞬いてしまった。
――何が？
「膝枕。していると嬉しい？」
「――」
私は言葉に詰まると、熱くなってくる頬を探偵に見られないようにそっぽを向いた。
「しりません」
まさか、私の考えていることが読まれたわけではあるまい。
探偵の言葉に、ふ、と過ぎるように駆け抜けていった思いがぶり返してきた。さっき、あの幸せそうな婦人を見て、もしかして私も探偵を膝枕しているときはあんな顔をしているのだろうか――と思ってしまったのだ。
もし、私もあんなふうに嬉しそうな顔をしているのだとしたら。
うわあああ……！！
私は突然叫びたくなった。叫んで頭を抱えて穴があったら埋まりたい。そしてできることなら、そのまま土をかけて埋めてくれ！
私は歩きながら小さく呻いた。顔も手も熱くて仕方がない。
ああああ。もう、なにそれ、だ。
膝枕とはいっても、私のようにやせてガリガリの腿に頭を乗せたって気持ちが良いとは到底思えない。あの婦人のようにもっと肉付きがよくて、頭を乗せれば反動があるくらいのほうが絶対に気持ちがいいはずだ。
探偵のことだから、相手は女学生であれば誰でもいいのかもしれないけれど。
もう、膝枕はしない――！
膝枕禁止だ！
そう決意しながら早足で歩いていると、私がそんなことを思っているとは露ほども思わない探偵は、帰ったら膝枕だ！ と叫んだ。
「ひざまっくら、ひざまっくら♪」
楽しそうな探偵の声。
「膝枕だよ、女学生君」
――だめです、もうしません。たった今、膝枕禁止令が発令されたところです。
「散歩の後は一緒にお昼寝タイムだ！」
――寝るなら一人でどうぞ。
私は頭の中で返答し続ける。
いま膝枕をしないと云ったら、探偵は「何で！」とうるさいだろう。だから私は諾とも否とも口にしないで黙って歩き続けた。
そもそも、いつから私の膝を枕にすることが当たり前のようになってしまったのだろう。
最初は振り回されて、呆れながらも諦めて、そのうち慣らされしまった。しかも、いつのまにか「はいどうぞ」なんて自分から云ってしまっている始末。
探偵が求めるから、与えてしまいたくなる。
でも、もし膝枕をしないと私が云ったならどうなるのだろう。
きっと、最初は不満を口にするはずだ。それでも、繰り返し断ればそれ以上は云ってこないだろう。私が本当に嫌がっていることはしない人だから。
「……」
かすかな眩暈。喉がひどく渇いた。
膝枕を断ったら、私は他に何を与えることができるのだろう――。
急に心臓が絞るように引き締まって、なぜかドキドキした。
他に与えられるものが何も思い浮かばない。
膝枕はもうさせない、と決意したばかりなのに、もうその気持ちが揺らいでいた。
それでいいの？
本当にいいの？
私は自分に問いかける。
探偵が求めるものを与えることができない者が、彼のそばにいてもいいのかと。
チクリチクリと胸が痛む。
事務所に顔を見せて、そばにいるだけでいいと云ってくれた探偵に、少しずつできる事が増えていくのが嬉しかった。おはようございます。お疲れ様でした。起きてきたとき、帰って来たときに挨拶ができること。和寅さんや益田さんたちでは諾といわずに困っているとき、私が云えば動いてくれること。そんな些細なことが嬉しくて、子供みたいな探偵に保母さんみたいな感覚になることもあった。
和寅さんを手伝ったり、ちょっとした事務を頼まれたり、少しでも探偵の役に立てるのが嬉しかった。
そう――。
膝枕ができることも、私は嬉しかったんだ。
嬉しいから、絶対に私はあの婦人のように笑っているに違いなかった。
だって、膝枕をしているときに眠る彼の顔を見るのも、柔らかい髪に触れるのも、嬉しくて、楽しくて、幸せで、気持ちが「好き」で溢れてしまう。
今では膝枕をしなければなんだか物足りなく思うほど。
私が膝枕をしなくなったら、彼はそれを別の誰かに求めるのだろうか。
私が膝枕はしない、と云って、なんでと云われるならともかく、あっさり「分かった」と云われたら？
探偵が他の女性を膝枕にしている姿など簡単に想像がつく。女性だって探偵に求められたら否とは云わないだろう。それは金銭の問題ではなく、心情的な問題だ。彼の甘えや求めを、拒否できる人などいない。でも、それをいやだと云うことも私にはできない。
そんな権利、私にはない。
まして、自分から断ったのであればなおさらだ。後から「やっぱり膝枕をしても良いですよ」――と云っても、探偵は笑って断るだろう。
今さら誰が好き好んで棒みたいな足を枕にしようなどと――。
「美由紀」
「――！」
いきなり名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
「はい――」
「どうした」
探偵の声が真剣な色を含んでいる。いつもは「女学生君」と口にする彼が、私の名前をきちんと呼ぶときは本当に心配しているときだ。
ずっと黙り込んでいた私を不審に思ったのだろう。
私は小さく笑って首を横に振った。勝手に一人で想像して不安がるのは愚かなことだ。
「なんでもないです」
それ以上言葉にならない。
探偵が困ったように眉を寄せている。隠し事をされていると思ったのだろうか。
どうしよう、困らせてしまった。
どうしよう。
どうしよう。
どうしたら――。
「その」
私は言葉を探して、
「もう、膝枕はしません」
するっと出てきた言葉に私は自分で驚いた。どっと汗が出るほどに混乱してしまう。
「あ……」
ちがう、と云って首を横に振る。
「違うんです。今のは――」
違う。
――何が？
私は息を飲んだ。
なぜ、もう膝枕はしません――なんて口にしたのか、その理由に気付いてしまったから。
云ってもらいたかったんだ。
嫌だと。
なんで、と。
不安で不安で仕方がなくて、だから、探偵からそう云ってもらって、安心したかったんだ。
そんな、人を試すようなこと――。
血の気を失った私に、探偵はあっさりと「いいよ」と云った。
「わかった」
「――」
息が止まって、身体が硬直した。
え？ と問うように探偵を見上げたら、彼は私が聞こえなかったと思ったのか、もう一度「わかった」――と云った。
「もうしない」
「……」
私は泣きそうになって、それを隠すようにうつむいた。
やっぱりそうなんだ、という思いと、探偵は勘違いしているんだ、という思考が混ざり合う。
一度口にしてしまった言葉は、後戻りができない。
私は何度も首を横に振った。
違う――。
違う違う。
そうじゃない。
そうじゃない――。
聞きたかった言葉も、云いたい言葉も、ぜんぜん違う。
探偵とつながった手。膝枕を拒否されたように、この手もいつか離れてしまうのだろうか。
――そう。
私は拒否されたんだ。
もうしないなんて云わないでよ。
なんでと云ってくれたら、いやだと云ってくれたら、冗談ですよと笑って返せたのに。
――本当に？
違う。そんな自分勝手なことを考えているから罰が当たったんだ。
探偵の手がするりと離れて、ますます胸が痛んだ。
ぶわりと涙が溢れそうになって、それを堪えるように唇を噛む。
「いったいどっちなんだ？」
探偵の両手が私の頬を包んだ。
「泣きそうな顔をするほどいやだったんだろう？ だから、膝枕はしなくてもいいよ」
「ちが……」
私は首を横に振った。
胸が痛い。どうしたら痛みを止めることができるのだろう。
「ほかの人に……」
胸がつかえて、言葉が途切れてしまう。
「してもらうの？」
「ん？」
探偵は首をかしげた。
「他の人って？」
「ほかの……女の、ひと」
とても探偵の目を見ていられなくて、私は逃げるように視線をそらした。
馬鹿なことを聞いている、と思った。
ふ、と小さく笑う気配が伝わってきて、視線を上げると、探偵はどこか愉快そうに笑っている。
「君がしてくれないから？」
「――」
「本当にいいの？」
探偵は淡々と聞いてくる。
いや、と云ったなら、探偵はまた「分かった」と云ってくれるような気がした。
でも、本当は誰でもよかったんじゃないの？
膝枕をしてくる女性がいるのであればいいんじゃないの？
私でなくても。
結局、彼にとっては、何ひとつ変わらないのだ。
「きっと……」
痛む胸を拳で押さえた。
「きっと」
私は、何を云おうとしているのだろう。
「私の膝より気持ち良いです……」
そんなこと、云わなくなって彼は知っている。
私の頬を包む探偵の手がピクリと動いた。女学生君、と口にした声は低く、怒っていると分かる。
見上げれば、彼は感情を抑えた顔でまっすぐに私を見返してきた。
「僕が他の女の膝枕で寝てもいいの、いやなの。云わないと僕は分からないぞ」
「……」
「女学生君」
私は一歩下がって探偵の手から逃れた。もう、このまま消えてしまいたい。
「いい、です」
それは嘘。
いいわけがない。
嫌だ。
すごく嫌だ。
絶対に嫌だ。
それなのに、何でこんなことを云っているのか、自分でも分からない。
束縛したい。
彼に求められるのは、私だけであってほしい。
でも、そんなわがままを云うのはもっと嫌で。
もし事務所で、女性の膝を枕に寝ている彼を見たら、きっと私は動けなくなる。その場所は私のものだと、取らないでと女を睨んで、醜態をさらすのだろうか。
もう、事務所にも行けなくなる。
「まったく」
探偵がため息をついた。
「君はデタラメだな」
探偵は、じりじりと下がっていく私に軽く一歩踏み出して接近すると、腕を伸ばして私の頭を捕らえ、自分の胸に押し付けた。
いやだ、と私は暴れるが、探偵は楽しそうに笑っている。
「知っているぞ。君の嫌は、良いってことだ」
違う、と首を振るも、探偵はよしよしと、なんだか暴れる動物を宥めるみたいに私の頭を撫で続けている。
「じゃあ、こうしよう」
探偵は、良いことを思いついた、というように元気に云った。
「帰ったら、今度は僕が君に膝枕だ！」
「――」
――は！？
わはは、と探偵は笑った。
「いつもしてもらうばかりじゃずるいからな」
たまにはお返しだ、と優しく囁いて、探偵は私の頭を撫で続けている。
――お返し？
今のは、いったい、何。
――私が、探偵の膝を枕に眠る……？
それがどういうことか気付いて、私は慌てて首を横に振った。
そんなことできません！ 私の口にはしない言葉を、探偵は「だめだ」の一言で却下した。
「決めたことだからな！ 君はおとなしく従うのみだ！」
「そんな」
「君に拒否権はない」
ふふ、と。探偵は楽しそうに笑った。
きっと、私はすごく困った顔をしていたと思う。
探偵は、頭に乗せていた手を肩に回して、ゆっくり私を抱き寄せた。
「ダメだよ」
探偵の胸が大きく流動して、頭上に口付けられたのが分かる。
「してもらうばかりでは、僕が不安になる」
云い聞かせるような、静かな声。
探偵が、不安になる？
聞き間違いだろうか。いや――、間違いなく、探偵は不安だと口にした。
私は探偵の上着の裾を掴んだ。
ぎゅ、と握って、呼吸を整える。
私は、これからも彼に膝枕をしてもいいのだろうか。
それを許してくれるのだろうか。
甘えるように、身体を少しだけ寄せると、探偵もまた少しだけ強く抱きしめてくれた。探偵の体温や鼓動がリアルに伝わってくる。
私の体温も彼に伝わっているのだろうか。
重なる鼓動が、私の気持ちを少しだけ落ちつかせてくれた。それがちょっとだけ悔しいのは、自分が子供だと思い知らされるからだ。
「……すみません」
「何で謝る？」
「……変なことを云ってしまったから」
探偵は軽く沈黙を返して、君は、と静かに囁いた。
「君はもっと自信を持ったほうがいい。自分に、じゃない。僕に対して、だ」
――探偵に対して？
探偵を見上げようとするが、彼はそれを許してくれない。ただ、肩を抱く腕に力が入った。
「我慢をするな。もっと我がままでいい。求めることをちゃんと口にしなさい」
僕は、と探偵は軽く言葉を選ぶように躊躇した。
「君に泣かれると弱い。君に嫌われたくない」
「そんな――」
私は思いっきり頭を横に振った。
「嫌いになんて――」
なるはずがない。
でも、下から見上げた探偵の顔は、少しだけ痛みを堪えるような表情をしていた。
「君に嫌われるのが怖い」
私は目を丸くしてしまった。
探偵が、怖い？
さっきから、不安だとか、怖いだとか、探偵らしからぬ言葉の連続だ。
私は首を横に振った。
「嫌いになんてなりません」
「失うのが怖い」
「失ったりしません。探偵さんが求めてくれるなら、ずっとそばにいます」
「嘘だ。いつも学校があるって帰ってしまうじゃないか」
「それは――」
私は、少しだけ呆れた。
「しょうがないでしょう」
でも、本当に探偵が私を必要だと思ったときは、絶対に帰ったりしない。
私にとって、なにが一番であるのかは明らかだから。
視線をそらさず、まっすぐに探偵を見上げると、彼は私の云いたいことが分かったのか、やがて端整な口元に優しい笑みを浮かべた。
私を見る瞳の色はさっきと同じなのに、怒りのようなものは伝わってこない。優しく、淡い色の瞳がまっすぐに私を見て、祈るように私の額に唇を落とした。
額にそっと、彼の唇がかするように触れる。
「君を、離したくない」
唇が動いて、甘くて優しい言葉をつむぐ。
「わかるか？」
真剣な声音。
わかるか、と探偵は云う。
「君を離したくない」
彼が、心からそう思ってくれていると分かる。
私は、探偵の背中に腕を回すと、探偵の胸に顔を埋めた。
「じゃあ、離さないでください」
絶対に、と私が囁くと、うん、と答えを返すように強く抱きしめられた。
探偵の鼓動が強く伝わってくる。
――本当に。
何もかもが反則だ。
自分が子供だと思い知らされて凹んだばかりなのに、今度は相手の方が子供みたいなことを云う。
まるで犬や猫が、大切な家族から捨てられるのを恐れているかのような表情をする。
きっと、探偵から膝枕をしないでいいと云われたとき、私もああいう顔をしていたに違いない。
「探偵さん」
その言葉を口にするだけで愛しくなる。
私は目を閉じた。
探偵の鼓動をもっと感じるために。
――事務所に帰ったら、探偵の膝を枕に眠ろう。
楽しくて。
嬉しくて。
恥ずかしくて、きっとドキドキが止まらないに違いない。
でも、私は知っている。そこが一番、安らげる場所であることを。
膝の硬さとか、肉の厚みだとか、枕の心地よさなんて、そんなのは関係ないんだ。
一緒にいるだけで嬉しいから――。
だから、大丈夫。
きっと探偵も同じだと思うから。
私は背中に伸ばした腕に力を入れて、探偵に強く抱きついた。
少しくらい甘えても、彼は受け入れてくれる。
いつか、三十年が経って、先ほどの夫婦のようになれたらいいと思った。
いつまでも寄り添って。
ともに笑って。
泣いて。
喧嘩をして。
許して。
愛し合って。
「探偵さん」
何、と問うように探偵の身体が揺れる。
私、あなたが好きなんです。
すごくすごく、好きなんです。
言いたいこと、伝えたいことがたくさんある。
口に出したら、当然だ、と彼は笑うだろうか。
了
【古風気味な百の題目／045】
2009.06.08