榎木津×美由紀 ※恋人設定
『遣らずの雨』
「明日から出張なのだ」
起きたくない、と主張する探偵に、眠たいんですか、と問うた答えがこれだった。つまり、気鬱、なのだろう。
布団に被ったまま呟く榎木津の言葉に、なんだか普通のサラリーマンみたいだなあと思いながら呉美由紀はニッコリと笑った。
「どこに行くんですか？」
「長野」
「行ってらっしゃい」
「……」
榎木津は布団を被ったまま起き上がると、ベッドの上で胡坐をかき、少女を見上げた。
「……それだけ？」
「気をつけてくださいね」
「もっと」
「暴れすぎないように」
「暴れたりしない」
「だといいですけど」
「……」
榎木津は指で自分の隣をトントンと叩いた。
美由紀はそれに従って、ベッドに上がると男の隣で正座をした。
「なんですか」
「何しに行くのかとか、どれくらい行くのか気にならないのか？」
「ああ！」
なるほど、と美由紀は破顔した。
「三日くらいですか？」
「一ヶ月」
「長いですね」
ニコニコ。
美由紀の笑顔に、榎木津はまだ不満がありそうな顔をする。
「一週間じゃないぞ、一ヶ月も会えないのだぞ」
「え？」
美由紀はきょとんと瞬いた。
「一ヶ月ですよね？ 分かってますけど」
「……」
「何しに行くんですか？」
「親父の知人の孫の家庭教師をすることになった」
「お孫さん……の家庭教師」
美由紀はきょとんと瞬いた。事件とか調査とか、想像していたこととまるで違ったから。
「家庭教師……」
榎木津は自由奔放に他人を振り回して生きているが、彼自身は父親からの一方的な依頼に振り回されることが多い。
「できるんですか？」
「できるとも」
「子供に悪影響を与えるんじゃ……」
「失礼な」
榎木津は美由紀のアゴを掴んだ。
「だって」
くすぐったそうに美由紀は笑った。
榎木津は大学も出ているし、文武両道、絵や楽器、茶道なども嗜んでいる。何をやらせてもできないことはない人だが。
「ハチャメチャな探偵さんに振り回されてゼエハアしている子供が目に浮かびます」
それでも、きっと慕われて、探偵の後を付いて回って、別れるときにはわんわん泣いてしまうに違いない。
美由紀が微笑むと、榎木津もまた微笑んで前屈みになった。膝の上に置かれた美由紀の両手を片手で掴み、軽く唇を重ねてそっと囁く。
「孫って、小さな子供だと思ってる？」
「違うんですか」
「違う」
ニヤリと笑う榎木津に、美由紀は小さく首をかしげた。
「中学生とか？」
榎木津幹麿元子爵に孫はいないが、もし子供たちの結婚が早ければ、いまごろ中高生の孫がいてもおかしくないのだ。
ふふと笑って、榎木津は再度口づけを交わす。
「高校生」
「私と同じ？」
「そう」
「……」
美由紀は高鳴る心臓を押さえたくなるが、その手は榎木津に押さえられている。
「……男の子？」
「女の子」
榎木津が、美由紀の顔を近くで見つめて口角をあげた。
「やっと僕の云った意味が分かったな」
「ベ、別に……」
「妬いた？」
「妬いてません」
「不安になった？」
「……」
黙り込んだ美由紀に機嫌を良くし、
「わはははは！」
「っ！」
榎木津は高笑うと、美由紀の腕を引いた。
少女の細い腰と肩を抱き寄せ、大きく息を吐く。
「一か月分、抱きしめていく」
その言葉に、美由紀もまた榎木津の背中に腕を伸ばした。
「私も」
ぎゅっ、と背中を掴まれて、榎木津は美由紀の首筋に鼻を埋めた。
「一か月分、忘れないように匂いを覚えていく」
「やっ」
嫌がる美由紀を笑い、榎木津はさらに抱く腕に力を入れた。
美由紀、と。
囁く。
「心配しないで。何もないよ」
だから、美由紀にだけはきちんと伝えていく。
どこに。
何をしに行くのか。
「……探偵さん」
「ん？」
「なんで……家庭教師を」
「さあね、向こうが指名してきたのだ」
「指名」
「親父の知人が海軍だったから、たまたま僕のことを知っていたのだろう」
ただそれだけ、となんでもないことのように榎木津はあっさりと云う。
だが、ただそれだけではないだろう、と思った美由紀の表情は沈む。それに気づいた男は、口をへの字にした。
「何もないと云ったぞ」
「はい」
美由紀は小さく笑うが、榎木津はムッとしたままだ。
「それより、君のほうが心配だ」
「私が？」
美由紀は瞬いた。
「事故にあうとか？」
「馬鹿を云うな！ もっと心配になるじゃないか！」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、美由紀は苦しいのに笑ってしまう。
「じゃあ、何が心配なんですか」
「云わない」
「云ってください」
「絶対に云わない！」
「なんで？」
くすくすと美由紀は笑った。
「云ってください」
「云わないよ」
榎木津は美由紀のこめかみに口づけ、側頭部に、頭頂部にと口づけを移していく。
美由紀は目を閉じて、男の熱を感じならがそっと囁いた。
「じゃあ、聞きません」
「うん」
互いの体温と鼓動が重なり、吐息が触れて、心が解け合う。
「雨だ」
「はい」
美由紀が来るときには降りそうな気配はなかったのに、外は急に土砂降りの雨。
「僕が帰したくないと思ったからだな」
ふふ、と美由紀は笑った。
「遣らずの雨ですね」
その言葉を最初に教えてくれたのは、ここにいる男だった。
榎木津は美由紀の身体を優しく抱きなおした。
「遅くなったら送るから、もう少しいて」
はい、と美由紀は榎木津の背を掴むことで了解する。
「行きたくないなあ」
大きな溜め息交じりの探偵に、美由紀はくすくすと笑った。
「だめですよ、ちゃんと行って来て下さい」
「美由紀が行かないでって云ってくれたら、行かないのに」
「そんなこと云いません」
「ちぇ」
でも、と男はニヤリと笑った。
「本当は行ってほしくないなあ、と思ってはいるようだから、それでよしとする」
「もう」
美由紀は男の背中を叩いた。わはは、と榎木津が笑う。
美由紀は男の笑い声を聞きながら、幸せそうに笑い返して、そっと榎木津の胸に身体を寄せる。
その身体を忘れないように。
体温も、声も、心音も、忘れないように。
「探偵さん」
「ん？」
「毎週、事務所には来ますから」
「電話する」
「向こうで遣らずの雨が降っても、帰ってきてくださいね」
「――」
くつくつと、榎木津は楽しそうに喉を鳴らし、
「了解」
美由紀の身体を軽く揺らして、大切なものに触れ誓うように優しく額に口づけた。
了
【水影的10の雨模様／06】
2009.11.09