榎木津×美由紀
『綺麗だった』
「ずるい！！」
外出先から帰ってくるなり、安和寅吉を見た男がくるりと振り返って叫んだ。
「女学生君！ 僕にもその顔をしたまえ！」
「……は？」
呉美由紀は思わず瞬き、小首をかしげた。
「その顔って？」
「今も可愛いけど違う！」
榎木津はいらだった様子で、美由紀の手をつかむとソファーまで連れていき、定位置に腰を下ろさせた。いつもなら美由紀の隣に腰を下ろす男は、向かいの位置に腰を下ろして足を組む。
「さあ！ 早くッ」
美由紀と向き合い、探偵は腕を組んで「早く」と云い続ける。
困った美由紀が寅吉に救いを求めた。
「和寅さん……」
寅吉は榎木津が放った帽子とコートをハンガーにかけてから、美由紀に肩をすくめて見せた。探偵が突拍子もないことを云いだすのはいつものことだ。
「先生。美由紀さんだってその顔って云われただけじゃ、どんな顔をすればいいのかわからないでしょうに」
「お前が見た顔だ。お前ばっかり見ているのはずるい！」
「私ばかりですかい」
いったいどの顔のことを云っているのだろう。寅吉は今日一日のことを思い返してみた。
「今日は……」
美由紀が来たときには榎木津が出かけていて、そのことを少女に伝えると「そうですか」と笑うが、少しだけ残念そうな顔をした。だが、それはいつものことだ。
寅吉はちらりと榎木津を見るが反応しない。やはりその顔ではないらしい。
「えっと、益田君もいなくて……」
いつも事務所に益田や榎木津がいないときでも、美由紀は事務所で夕方まで過ごしてから帰っていく。途中でどちらかが帰ってくる場合もあるので、いないからといってすぐに帰ったりはしない。結果、榎木津よりも寅吉や益田のほうが美由紀と過ごす時間は多かったりするのだが、美由紀の目当てはあくまでも探偵だ。榎木津がいれば、たとえ寝ているだけで顔を合わせなくても美由紀は嬉しそうにしている。
美由紀が事務所に来ると榎木津の機嫌が良い。だから、顔を見せるだけでもいいから来てくれないか、と益田や寅吉が美由紀に頼んだのは昔のこと。
今では通い猫のように事務所へ顔を見せるようになった少女は、榎木津礼二郎だけでなく、薔薇十字探偵事務所にとってもなくてはならない大切な存在となってしまった。
榎木津は寅吉から視線を美由紀に向けて、早く笑えと云っている。
ということは、榎木津が見たいのは美由紀の笑う顔ということか。
美由紀が困ったように微苦笑を漏らした。
「その顔も可愛いけど、ちがぁう！」
叫ぶ榎木津に、寅吉は呆れた。
美由紀の笑顔など腐るほど見ているだろうに、どれかひとつに限定して見せろとはまた無理難題を。
美由紀がぎこちなくも幾通りかの笑みを見せるが、榎木津はどれも違うと云い張る。その間、寅吉は美由紀が今日見せた笑顔を思い出す。
いつもは、世間でどんな事件があったのか、どんな活躍をしたのか、現場をめちゃくちゃにしたことも含めて、益田や寅吉が語る探偵の話をニコニコと楽しそうに聞いている。普段から事務所に缶詰の寅吉にとっても、美由紀は良い話し相手だった。世間の噂や時事だけでなく、探偵の守秘義務もなんのその、寅吉は事件や依頼人のことも詳しく話してしまう。
「――あ」
あれかな、と寅吉が思ったとき、それダ！ と榎木津が叫んだ。
「それ？」
首をかしげたのは、呉美由紀だ。
「どれです？」
美由紀の問いかけに、寅吉は苦笑した。
「犬の話をしたときにした顔みたいですぜ」
「犬」
「女優の」
「あ」
美由紀の頬がポッと赤くなった。
「その顔だッ！」
榎木津が嬉しそうに叫び、飛び上がった美由紀が慌てて両手で顔を覆った。
「なんで隠すのだ」
榎木津は美由紀の隣に座りなおすと、絶対に見られまいと顔を背ける美由紀の手首を掴んだ。
「ほら、見せて」
「嫌ですっ！」
「いいから」
「い や で す！」
男の力に逆らえるはずもなく、あっさりと掴まれた腕を万歳の格好にさせられて、それでも美由紀は顔を伏せている。
「美由紀」
名前を呼ばれて、美由紀は泣きそうな顔で榎木津を睨んだ。
「なんで泣くのだ」
「泣いてません」
紅潮した顔で目を潤ませた表情はどこか色めいて、見ている寅吉はドキリとしてしまう。
「……ふうん」
榎木津はつまらなそうに呟くと、いきなり美由紀の唇を奪った。
「――！」
軽くついばむようにして、すぐに顔を離す。
「可愛い顔をするからだ」
「な、な、な……！」
混乱している美由紀に、榎木津は笑って再度顔を近づける。
「……っ！」
唇が触れる寸前、美由紀はぎゅっと目を瞑ったが、榎木津は触れず、蕩けるように優しく笑った。
榎木津は掴んだ美由紀の手首を自分の首に回して、少女の腰を引き寄せるように抱くとそのまま立ち上がった。
「――っ！？」
ふわりと、まるで体重を感じさせない抱き方だ。
「探偵さん！」
「うん」
榎木津は精悍な顔で美由紀を見つめた。
「あの顔を見るのは今度にする。君は泣いても可愛いけど、それは僕の見たい顔じゃない」
「――」
美由紀は言葉につまり、ごめんなさい、と小さく謝った。榎木津は顔をしかめる。
「何で謝るのだ」
「……」
美由紀は困ったようにうつむいた。そっと床に下ろされて、榎木津の首から腕を抜いた。
榎木津は美由紀の頭を優しく撫でると、散歩に行こうか、と誘う。
「それとも、ここにいる？」
こくん、とうなずいた美由紀に、榎木津は口角を上げて、じゃあ昼寝だっ！ と叫んだ。
「君が枕だぞっ」
「はい」
美由紀が笑う。
二人のやり取りを見ながら、和寅はほうと息を吐いた。
榎木津が見たいと云った美由紀の笑顔。だが、実際は美由紀にもそれがどんな表情であるのかはわからないに違いない。
寅吉が受けた迷い犬探しの依頼。最初は断るように云った榎木津だったが、犬の名前が「みゆき」とわかって一転、熱心に探したのは先週のこと。
それを聞いて美由紀が浮かべた顔を榎木津は「見たい！」と云う。
あのとき――。
みゆき、みゆき、と云いながら犬を探す榎木津の姿を想像して微笑んだ美由紀の表情は、いつもより柔らかく、笑い声も楽しそうで嬉しそうだった。
人への愛しさが溢れたら、あんな表情になるのかもしれない。
「けっこう、している顔だけどなあ……」
寅吉は呟いた。
たいてい、榎木津を見ているときの美由紀はそんな顔をしているが、実際に榎木津と目が合ったときにする表情ではないから、榎木津だけが知らないのだろう。
和寅の目から見た美由紀の笑顔は、榎木津の目にどう映ったのか――。
二人の邪魔にならないように夕飯の買い物へと向かいながら、寅吉はビルヂングの三階を見上げて口角を上げた。
了
【古風気味な百の題目／069】
2009.11.11