榎木津×美由紀
『口づけをください』
日曜日の昼に神田神保町の探偵事務所を訪れたら、いつもは笑顔で迎えてくれる和寅さんが、困惑顔で私を見た。
「美由紀さん……」
「こんにちは」
突然の訪問ではないので、彼は私の来訪を知った上で困惑している――ということになる。
「お客さんがいらっしゃるんですか？」
それなら帰らなくちゃ、と思ったときだった。
和寅さんはいきなり頭を下げた。
「すみません！」
「え？」
「実は先生が……」
「探偵さんが？」
「ええ、その……」
和寅さんは云いにくそうに肩を狭めてつぶやいた。
「……いるんです」
探偵が、いる。
どこに？
もちろん、答えは「ここに」だろう。私はその単語を頭の中で整理して。
「は！？」
慌てて時計を見た。
時計の針は午後一時を指し示している。
「いるって、まだいるんですか！？」
「そうなんですよう」
和寅さんは半泣きだ。
私は慌てて寝室に向かうと、
「探偵さん！」
ノックをしないでドアを開いた。
「やあ、女学生君、おはよう！」
呑気に笑って、寝室のベッドの上でバスローブを着たまま胡坐をかいている男が私を手招いた。
「おいでおいで」
くいくい、と手首を曲げ、ぽんぽん、と自分の膝を叩く。
「ここに来なさい！」
私はぽかんと口を開けてしまった。
目の前にいるのは、正真正銘の探偵、榎木津礼二郎だ。
「探偵さん……」
「なに？」
「なに、って」
私は寝室にある置き時計を見た。針は午後一時を二分ほど過ぎている。
彼は、午後一時から実家で重要な集まりがあるというので、この時間は不在のはずだった。
どう見ても、これから実家に向かうような感じでも格好でもない。
「今日は実家に行かれるんでしたよね？」
「あれね」
探偵はあっさりと「やめた」と云った。
「やめた？」
集まりが中止になった、という意味ではないだろう。
探偵はひざの上に置いた枕へ拳を繰り出しながら、「なんで僕が行かないといけないのだ」とぶつぶつと呟いている。
私は探偵に近づいた。
半分だけ乾いた栗色の髪。寝室は石鹸の匂いに包まれている。
なるほど。行こうと風呂に入ったまではいいが、急に面倒くさくなったのだろう。
っていうか。
私は眉をひそめた。
「探偵さんが実家に行かないんだったら、私、帰ります」
昨日、実家に帰ることを渋る探偵が、帰ってきたときに私が待っていてくれるなら行く――と云うから来たのだ。それなのに、いまさら行かないとか！
探偵を睨むが、旧公家の次男坊はふと何かに気づいたように私を見た。
「なんで制服なのだ。今日は日曜日だぞ」
「ここへ来る前に学校に寄ったんです」
昨日の夜、宿題を片付けようと鞄を開いたら古文のノートだけがなかったのだ。
探偵は不満そうに顔を歪めた。
「制服じゃあ、どこにも遊びに行けないじゃないか」
「実家に行ってください」
「君と一緒に？」
「なんで私が一緒に行くんですか。一人で行ってください」
「いやだ。面倒くさい」
探偵の「面倒」が出ると、彼を動かすのは容易じゃない。
実家に帰るのが嫌だと渋るくせに、この探偵、和寅さんに云わせると一度実家に帰れば軽く一週間は帰ってこないというのだから。
私はベッドの端に腰を下ろして、上半身を探偵の方へと向けた。
「銭湯と一緒ですよ、探偵さん」
「なんだそれは」
「行くのが面倒だけど、入ったらそれを後悔する人はいないってことです。いつも実家に帰れば一週間くらいいるんでしょう？ 行っちゃえば、きっと楽しいです」
「あそこには女学生君がいない」
「じゃあ、約束どおり、ここで待っていてあげますから、早く行って早く帰ってきてください」
探偵はふてくされたように私をにらんだ。
「すぐに帰ってしまうくせに」
「だから、早く行って、早く帰って来て下さいって云っているじゃないですか」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味です？」
「……女学生君は冷たい」
冷たすぎる、とむすっと口をへの字にした探偵に、私はにっこり笑ってみせた。
「じゃあ、冷たい女学生は帰りますね」
す――と立ち上がった私のスカートが、すぐにピンと張った。なんで、と思うまでもない。探偵が掴んでいるのだ。
「……もう」
私はファスナーが外れないように脇を押さえて、スカートを巻くようにして振り返った。
「探偵さん」
探偵は子供みたいに不貞腐れた顔をしている。
「君はもっと僕を甘やかすべきだ」
「はあ？」
また変なことを云い出した。
「十分、甘やかしていると思いますけど」
「足りない」
「そんなことないです」
「ぜんぜん足りない！」
「約束も守らずに駄々をこねている大人を甘やかせと？」
そんな女性が好みなら、私は探偵のそばにはいられない。
そう考えたことがわかったのか、私の気持ちが冷める前に探偵がそれを否定した。
「違ぁう！」
探偵は険しい顔で手元を睨んでいる。
常日頃から、探偵が「もっと甘えてこい」と文句を云ってくることはあるけど、自分を甘やかせと云われたのは初めてだ。途方に暮れる、という言葉はこういうときに使うのかもしれない。いったい、どうすればいいというのか。
第一、私の中では、自重を求めるくらい普段から彼を甘やかしているという自覚があるだけに、探偵の主張には納得がいかない。
――ああ。
そうか、「足りない」のか。
私は息を吐いて、スカートを掴んでいる探偵の左手を取った。
「探偵さん」
にぎにぎと探偵の手を両手で握る。軽く揺すった。
「どうしたらいいのか、云ってください」
私は再び腰を下ろして、前屈みになると探偵の顔を覗き込んだ。
「探偵さん？」
「まだ、挨拶をしてない」
「は？」
「挨拶ダッ！」
「……」
ええと、と私は探偵の目を見つめながら小さく首をかしげた。
挨拶。
していなかった、っけ？
「おはようございます……？」
「それから？」
――それから？？
「ええと、……こんにちは？」
「うん。それで？」
「……」
――それで？？？
「こんばんは」
「違う！ 僕を甘やかすのだろう！」
「ああ、甘やかす、ね」
甘やかす、甘やかす。
本当に意味がわからない。
でも、探偵がしてもらいたいことだけはわかる。
私は溜め息をつくと、探偵の額に口付けた。
ちゅ、と軽く音がする。
これでどうだ、と探偵を見たら、少しだけ機嫌を直しているのがわかった。本当にわかりやすい人だ。
「もっと」
「もっとぉ？」
「もっとだっ！」
「もぉ……」
えい、と私は探偵の鼻の頭に軽く唇を当てた。
これでどうだっ、と顔を離したら、探偵の顔には笑顔が広がっている。それを見た私の方が赤くなってしまった。
逃げようと立ち上がった私の手首をつかんで、探偵は私を元の位置に戻してしまう。
「探偵さん！」
「女学生君、もっと」
「もっと！？ もうだめです！」
「もっとだ！！」
「これで甘やかしてないとか、どの口が云うんですか」
「じゃあ、云わないように塞げばいいじゃないか」
ニコリと笑う探偵が、本当に憎たらしい。私は負けまいと探偵を睨んだ。
「塞いだら、ちゃんと実家に行ってくれるんですか」
「うん！」
ニコニコニコ。
子供みたいに笑う。
私は嬉しそうな探偵の顔をじっと見て、見て、見て、見て、ニヤけている口を両手で覆って押し出した。
やっぱり、だめ！
「甘えすぎ！」
「もう遅い！」
うわはははと笑った探偵は、私の腰をつかんで一回転。
「わ！」
くるりと簡単にひっくり返されて、ベッドに背中を押し付けられた。
「探偵さん！」
上から私を覆うように見下ろしてくる探偵の顔は、先ほどとは違って真剣だった。一瞬でも怖い、と思ってしまったのは、本能的なものだと思う。
でも、私の怯えが伝わったのか、探偵はすぐに優しく目を細めた。
「怖い？」
「……」
「僕が？」
「――」
優しい人だとわかっている。――それでも。
喉が震えた。
「こわい、です」
本当は、彼が怖いんじゃない。ただ、怯んでいるだけ。
探偵は微苦笑をもらした。私から視線をそらすと、ちぇ、と小さくつぶやき、私の額に軽く唇を落とした。
「たくさん甘えさせてもらったから、今は許してあげよう」
すぐに身を起こして私を解放してくれる。でも、そうされると今度は私のほうが物足りなくなってしまうから始末に終えない。
胸のどきどきは止まらないまま。
「探偵さん」
「ん？」
きっと、シャンプーの匂いが、私をおかしくするんだ。
バスローブの袖を握って、そこに私は顔をうずめた。
「怒りました？」
「なんで」
「こわいって、云ったから」
「怒らないよ」
くしゃくしゃと、探偵は私の頭を撫でた。そのまま、探偵の身体がするりと抜けて、脱げたバスローブが私の身体を覆おった。
私を残して探偵がベッドから降りた。
「行ってくる」
バスローブの下はおそらく裸なので、私は硬直したまま顔をあげられない。
探偵が裸足のまま歩く音と衣擦れの音がする間も、私は身動きひとつしなかった。
裸足の足音が靴音に変わり、探偵が再び私の頭をバスローブの上から撫でた。
「すぐに帰ってくるから、待ってて」
「――」
探偵さん、と。
私がバスローブを抱いて身を起こすと、彼は目を細めて笑った。私のくしゃくしゃになった髪に指を通す。
「帰ってきたら、今度は女学生君が甘える番だ」
「甘えません」
「甘えるの！」
まるで子供を叱るような云い方だった。だから、私は小さく笑ってしまう。
「甘えるって、どう甘えるんですか？」
「簡単だよ女学生君」
探偵はにっこりと笑った。
「ただ僕のそばにいればいいのだ」
「……そばにいるだけ？」
「そう。簡単だ」
確かに、それだけなら簡単だけど。
探偵はうふふと笑うと、ひらひらと手を振って寝室を出て行った。
お見送りしなくちゃ、と思ったけど、私はバスローブを抱えたまま再びベッドに倒れて目を瞑った。
なんとなく、ここから離れるのがいやだった。それは、楽しい夢を見たときに目が覚めて、もう一度その世界に戻れないかと再び目を瞑る行為に似ている。余韻を楽しみたいのかもしれない。
ふわりと、探偵の匂いに包まれて、先ほどのことを思い出すと、胸が熱い。
甘えてもいいというのなら、今、甘えさせてもらおう。
「いってらっしゃい……」
ささやいても、聞こえない距離だ。
――探偵さん、早く帰ってきてね。
私は事務所から聞こえてくる探偵と和寅さんの声に耳を澄ませて、そのまま眠りに落ちた。
了
【甘い恋の欲求で５のお題／05】
2010.01.24