榎木津×美由紀
『手と』
「女学生君、手！」
「は？」
――手？
私が事務所に来て早々、ソファーから立ち上がった探偵は、立てた両手の平を私に向けた。
ハイタッチ？
「何か良いことでもあったんですか？」
私は笑って、探偵の手に自分のそれを重ねた。
外から入ってきたばかりで冷えていたから、探偵の手がとても暖かい。思わず頬が緩んで、ふふ、と笑ってしまう。
「探偵さんの手、大きい」
色が白くて、指も多少骨ばってはいるけれど長くて形がきれいだった。とても悪人を殴ったりするような拳には見えない。でも、この力強い手が、とても優しいことを私は知っている。
「探偵さん？」
私は改めて探偵を見上げた。
探偵はまっすぐに私を見ていて、視線が合うと、うふふと笑った。
「小さい手だなあ」
「探偵さんが大きいんです」
「それに柔らかい」
なんだかその云い方が恥ずかしくて、私は手を離そうとした。でも、探偵がすぐに重ねていた指をずらして手を握ってしまう。
「逃げるのはナシ」
「探偵さん」
探偵は、じいいと私の目を見てから、急ににっこりと笑った。
何。
私は戸惑いながらも、ただ瞬くばかり。問うように首をかしげると、探偵が腕を押してきた。私が一歩後ろに下がると、探偵はまた押してくる。
「探偵さん、何ですか」
探偵はうふふと笑う。
「ラブ握りだ」
「らぶにぎり？」
「そう」
探偵は楽しそうに笑っている。
私たちは踊っているかのように事務所の中を動き回った。ただ単に、探偵が押してくるので私が身体を引く一方だったのだけれど。
なんだか押されてばかりなのが悔しくて押し返してみると、探偵は「お？」という顔をして、突然「うわははは！」と声を出して笑った。
押した手はどんどん高く上がって、二人で手を組んだまま万歳をした形になってしまう。すると、探偵は急に手を離して、私の身体を抱き上げた。
「うわ！」
ぐるん、と一回転。放り出されそうな勢いに、私は探偵の首に腕を回して彼の頭にしがみついた。
「探偵さん！」
「うわははは！ 君は実に良い！」
「何が！」
「僕を楽しくさせる天才だ」
「はあ？」
立ち止まった探偵は、私の腕の中で楽しそうに笑っている。
探偵を楽しませた記憶などない。それに、私が楽しくさせなくても、彼はいつも楽しそうじゃないか。
「それは探偵さんでしょう」
「何が」
探偵が私を見上げた。大きな眼がまっすぐに私を見つめる。長いまつげの下は、吸い込まれそうなくらいきれいな瞳。
「いつも楽しそう」
「それは君がいるからだ」
「私？」
「そう」
「人を楽しくさせる天才は探偵さんのほうです」
「僕といると、楽しい？」
「はい」
私が真面目にうなずくと、探偵は口角を上げた。
「僕といると、嬉しい？」
「はい」
「どうして？」
「どうしてって……」
いつも無茶で奔放で強引だけど、笑ったり、怒ったり、すねたり、静かだったり、真面目だったり、くるくると変わる表情のすべてが楽しくて、彼のそばにいることが嬉しかった。それを、どうしてと云われても困る。
あれ、と思う。
それは、探偵がさっき云ったことと同じじゃないのか？
探偵も、私といると楽しいのだろうか。
嬉しいのだろうか。
なんだか、急に顔が熱くなってしまう。
探偵にそれを悟られたくなくて、私はわざと探偵から顔を背けた。
「理由なんてないです」
「僕もない」
「じゃあ、きっと探偵さんと一緒です」
「そうか」
「そうです」
探偵の笑う気配に視線と落とすと、彼はニヤニヤと笑っている。
「探偵さん」
「何」
「早くおろしてください」
「嫌だ」
「嫌だじゃない。早くおろして」
「嫌だッ！」
嫌だ嫌だと云いながら、探偵は私を抱き上げたまま事務所内を歩き回った。
台所から、和寅さんが紅茶とケーキをお盆に乗せて現れると、応接セットのテーブルにそれを置いた。
「先生、美由紀さんが困っていらっしゃるじゃないですかい。早くおろしてあげてくださいよう」
「イヤダッ！」
「お茶の用意、できましたぜ」
探偵は、抱いている私の腰を軽く抱きなおし、なんだかえらそうに云った。
「じゃあ、あと五分！」
「先生があと五分って云って、ちゃんと五分で起きたことなんて一度もないでしょうに」
「じゃあ、あと三十分」
「紅茶が冷めますぜ」
和寅さんは呆れたように云うと、肩をすくめて台所に引っ込んでしまった。
「探偵さん」
「あと三十分だ」
「……」
本当に三十分は離してくれそうにない。
楽しそうな探偵の顔を見ていたら、なんだかもう勝手にして、という気分になってしまった。思わず笑いが漏れる。嫌だったら本気で抵抗することを、探偵だって知っているからこそ無茶をするのだろう。
こうしている今、実は私も楽しいことを悟られているような気がするのは悔しくて。
私は探偵の頬をつかむと、むぎゅっと左右に引っ張った。
了
【恋をしている十の題／07 手と手が触れ合った時】
2010.02.13