榎木津×美由紀
『翠』
「あれ？」
ソファーの足元に、一枚の写真が落ちているのに気づいて身をかがめた。
「これ」
指紋をつけないように拾って裏返すと、右の口元にほくろがある女性の写真だった。女優のブロマイドだ。
「和寅さんのですか？」
「あ、それ。木場さんのじゃないかな」
答えてくれたのは益田さんだった。
「美由紀ちゃんが来る前に帰ったけど、そこに座っていたから」
「へえ……」
木場刑事が事務所に来ていたのは用があったからだろうが、きっといつものように探偵と喧嘩のようなやり取りを交わしていたに違いない。それを想像すると可笑しくてつい笑ってしまう。
和寅さんがにっこりと笑った。
「手帳を開いていましたからねえ。そのときに落としたんでしょう。美波絹子って女優ですよ。知ってますかい？」
「みなみ……」
写真に目を向けて、あ、と思う。口元のほくろに見覚えがあった。
「捕り物時代劇に出ていました？」
「そうですそうです」
和寅さんの目が輝いた。彼は芸能関係に詳しいのだ。
あの無骨な刑事と女優のブロマイドという組み合わせはなんだか意外だった。普通の写真であれば「この女性に見覚えは？」なんて聞き込みに使うのだろうから違和感はないのだけれど。
「以前受けた依頼の関係者なんですよう」
思わず確認するように大きな机に視線を向けると、そこにいる探偵は目を細め、ふふふ、と楽しそう笑った。おいでおいで、と手招きされるのでソファーから離れて探偵のほうへと寄ると、私の頭の上のほうを見ている。
「君も見たのか」
相変わらず探偵の発言には脈絡がない。でも、何を、というのはすぐにわかった。
「時代劇ですか？ はい、小学校のときに学校で」
校長か教頭あたりが映画好きだったのだろう。小学校の高学年になると、一学期に一度くらいの割合で体育館を劇場にして、映写機を回してくれたのだ。
写真の女優が出ている映画もいくつか見た覚えがあった。特に捕り物帳は決めの台詞が格好良くて、見終わったあとにみんなで真似をしたのだ。それを口にしようとしたとき、
ダダダダ、と大音量で建物が揺れた。
「！？」
地震かと、心臓が跳ねたのは一瞬。すぐに誰かが階段を上がっているだけなのに気づいた。
なにこれ、と益田さんが立ち上がった。
急いでいるのはわかるが、今にも建物を破壊しそうな勢いだ。乱暴にもほどがある。
その足音はだんだんと三階に近づいてきて。
バン！
ドアが激しく開き、カランカランカランカランカラン！！ と鐘が鳴った。
現れたのは、手前ぇら全員動くんじゃねえぞ、と云わんばかりの凶悪な顔の男だった。
「刑事さん！」
「木場さん！」
「木場の旦那！」
どうしたんですか。
驚く私たちに向かって、肩で息をしながら大柄な男は近づいてくる。その威圧感たるや半端じゃない。
刑事は最初にソファーを見、床を探し、私の手元に向かってハッと表情を変えた。
あ、と私は口をあけた。忘れ物に気づいて取りに戻ってきたのか。
「落ちていましたよ」
にっこりと笑って差し出すと、刑事はバツの悪そうな顔で、おう、と短く礼を云ってそれを受け取った。
「すまねえな」
刑事はブロマイドを胸元のポケットに無造作にしまった。心なしか頬が赤いのは、走ってきたからだけではないだろう。
殺されるんじゃないかと思いましたよう、と益田さんが脱力し、和寅さんが濡らして絞ったタオルを持ってきて刑事に渡す。
刑事は顔や首を豪快にぬぐいながら、疲れたようにソファーに腰を下ろした。おそらく私が写真に気づかなければ何事もなかったかのように拾って帰ったに違いない。今は見つかったのなら仕方がない、と開き直っているように見えた。
いったい、どこで忘れ物に気づいて、どこから走ってきたのだろう。刑事がここにいたのは私が来る前だから、二時間以上も前だ。
「きれいな女優さんですね」
「ああ」
「私も、その人の映画見たことがありますよ」
「……そうなのか？」
「はい。小学校のときに」
「へえ」
刑事が意外そうな顔で私を見上げてくる。
「三四郎か」
「いえ。ええと、決め台詞が」
――悪党、御用じゃ！
私はその場面を思い出して、ソファーにかけてあった益田さんのネクタイを取り縄に見立てて、声や格好すらも真似て再現して見せた。
「おお」
刑事の顔が輝いている。
「似てるじゃねえか」
「題名は忘れてしまったんですけど。よく真似して遊びました」
えへへと笑って、ほかにもあれがよかった、面白かったと映画談義に花を咲かせていると、突然、私の背後から顔の左右を腕が通り抜けた。
え、と思うまもなく、探偵が私の頭をホールドした。
「探偵さん！」
むぎゅ、と抱き寄せられて私は慌ててしまう。
探偵は私の頭の上にあごを乗せた。
「これは僕のだから、惚れたってだめだぞ」
「探偵さん！」
いきなり、何云ってんの！
驚いたように目を見開いた刑事は、心底呆れた、という表情で探偵を見た。
「何云ってんだ、馬鹿」
うんうん、本当に。
もっと云ってやってください！
「まあいい、邪魔したな」
刑事はあっさりと立ち上がると、踵を返して手首をひらひらと振るが、何かに気づいたように振り返った。
「お嬢、帰るんだったら駅まで送っていくぜ」
「だめ」
探偵が私の肩を強く抱き寄せて制止する。耳元で聞こえる声に自然と顔が赤くなってしまうのは仕方がない。ここで暴れたら逆効果だってことは経験済みだ。
私は刑事に向かって苦笑した。
「ありがとうございます。でも、もう少しいますから」
「そうか、あまり暗くなる前に帰れよ。近頃、変な奴が多いからな」
ああいや、と刑事は細い目で探偵を見た。
「最も変な奴がここにいるけどな」
「うるさいぞ箱男！ 早く帰れ」
はっはと楽しそうに笑って、木場刑事は事務所を出て行った。戻って来たときとは違って、静かに帰っていく。その音が完全に消えてから、私は背後霊のように背中にくっついた探偵の腕をぴしりと叩いた。
「変なこと云わないでください。誤解されちゃうじゃないですか」
「誤解はしていないと思うぞ」
「思いっきり誤解していたと思います」
「誤解じゃないから、問題ない」
ニコニコと楽しそうに。
まったく話が通じない。
本当に、もう。
私は持っていたネクタイを探偵の首にかけると、クイッと絞めた。
「悪党、御用じゃ」
了
【古風気味な百の題目／089】
2010.05.20