榎木津×美由紀 ※恋人設定
『狐の嫁入り』
和寅さん、いってらっしゃい、と。
笑顔で美由紀さんに見送りされて事務所を出た十五分後、忘れ物に気づいたのは駅についてからだった。
ハンカチちり紙というのならともかく、財布ともなれば必要不可欠。仕方がなくそのまま来た道を引き返すことになった。
どこに置いたかなあ、と考えながら古書街を歩く。
益田君は同窓会があるとかで神奈川に帰り、自分もまた法事で実家に帰る。せっかくだから、と二人とも一週間の休みを貰ったのだが、礼二郎さまひとりだけが事務所に残るというのは本当に久しぶりのことだった。
ご飯は外食か出前を頼めばいいので問題はない。問題があるとしたら洗濯くらいだ。学生時代は寮にいたし、軍隊にもいたのだから自分でできないことはないだろうけれど、おそらく一週間もすれば自分が帰ってくるのだからと放置されるに違いない。
美由紀さんも見に来てくれるといっていたし、台所の洗い物や事務所の掃除くらいはしてくれるんじゃないかと期待しつつ、早くお嫁に来てくれたらいいのに、と心から思う。
礼二郎さまと婚約こそはしたものの、いまだ学生の少女は寮から学校に通い続け、事務所に顔を出すのも土曜と日曜のみだ。
婚約したからといって、何かが大きく変わったわけでもない。呼び方は相変わらず「探偵さん」「女学生君」だし、互いに相手を振り回し、振り回される毎日。
昔に比べてデートはよくしているが、ほとんど散歩の延長だ。
榎木津ビルディングが見えてきて、事務所がある三階を見上げると、ちょうど礼二郎さまの部屋がある寝室のカーテンがゆれた。
事務所を出たとき、主はまだ眠ったままだった。起きられたのかな、と思ったが、カーテンの揺れ方がおかしい。下から引っ張っているような感じなのだ。ちょうどベッドのあるところだから、礼二郎さまがいじっているのかもしれない。
やれやれ、と思いながら階段をのぼる。
三階について事務所の扉を開こうとしたが、なぜか鍵がかかっている。
「あれ？」
事務所に人がいるときは、鍵をかけずにそのままであることが多い。鍵をかけるのは出かけるときくらいだ。
寝室には礼二郎さまがいる。だとしたら、美由紀さんが何か用があって事務所を出たのかもしれない。
桃カンが食べたいとか、ゼリーが食べたいとか、わがまま云い放題な王様の要望をかなえるために。
「まったくもう……」
鍵を取り出し、カチャリとあける。
「先生、いるんですかい」
カランカランと鐘が鳴って。
事務所の奥、――寝室で物音がした。いや、していた物音がピタリと止んだ。
「先生？」
一歩、二歩。
三歩めに足が止まった。
「……」
ソファーの足元に、靴の片方が落ちていた。
靴占いなら「曇り」の、コロンと横になったそれは、サイズからいっても呉美由紀嬢のものだった。
さらに一歩進んで、もう片方も見つける。今度は裏返しになって「雨」だ。
さらに一歩進んで、今度は布が乱雑に落ちているのに気づいた。まったく、何をやっているのやら、と拾おうとして思わず硬直する。
「――――」
手に取ったそれは、スカートだった。
さらにソファーの上にはセーラー服の上着が無造作に投げ捨てられ、背もたれには白いブラジャーがひっかかり、脱ぎ捨てられた靴下と、三角形の小さな布。
「……………………」
思わず顔を向けた寝室の奥では、二人が息を潜めているのがわかる。いったい何をしているのか、などと疑問に思うまでもなく。
あわわわわ。
大変だ大変だ。
両手をさまよわせて右往左往。
かなり動揺していたのだと思う。混乱した頭で、なぜか皺にならないようにしなければ、とスカートをたたみ、上着をたたみ、その上にブラジャーと下着、靴下をそろえてソファーに置いた。
よし、これでいい。
額の汗をぬぐい、そこでやっと正気に戻った。こんなことをしている場合じゃない。早く出なくちゃ、ときびすを返そうとして、本来の目的を思い出した。
財布！
財布を取りに戻ったのだ。
どこだどこだ、どこに置いた！？
いまだかつて、こんなに慌てたことはないかもしれない。美由紀さんに見送られてここを出る前に、財布を持って和室を出たことまでは覚えている。ということは、事務所になければ台所か洗面所のどこかにあるはずで。
寝室の前を通るときに、ひいいごめんなさい、と手を合わせる。それなのに、台所、洗面所にもｎくぁｗせｄｒｆｔｇｙふじこｌｐ！
落ち着け落ち着け！
ない！
ない！！
なんでないんだ！？
もう泣きそうだった。というか、泣いていた。
しかも、静かだった寝室の中から、急にかすかな喘ぎ声が聞こえてきて。
「……っ、や……ぁっ」
今まで、聞いたことがない美由紀さんの声。
れれれれ、礼二郎さまなにやっているんですようーーーー！！
うわあああああああああああ……！！！
今すぐ三階の窓から飛び降りて脱出するしかない、と考えていると、和寅！ と寝室から声がかかった。
「は！ はひ！」
心臓が十センチほど浮いた。
「そ、そうです、和寅ですよう……」
肩をすくめ、邪魔するつもりはまったく、と云い訳を口にしようとしたら、
「電話のところだ」
なぜか楽しそうな声で云われた。そう、実際に楽しいのだろう。堪えきれずに漏れる少女の喘ぎと、ベッドがきしむ音がする。
「へ？」
電話？
顔だけを動かして確認すると、電話の横に財布が置いてある。
あったーーーー！
滝のような涙が出た。
そうだ、出かける前に実家にこれから帰ると電話をかけたのだ。
「ありましたよう！」
「じゃあ早く行け馬鹿」
「はい！」
慌てて財布をつかむと、美由紀さんごめんなさいごめんなさいと心の中で拝んで事務所を飛び出した。
手が震えて時間がかかったけれど、ちゃんと鍵を閉めるのを忘れない。
階段を一階まで降りると、ようやく大きく息を吐くことができた。
壁に手を突き、もたれかかる。
「お、お、お、驚いた……」
いや、もっと驚いたのは二人のほうに違いない。美由紀さんも今頃はほっと息を吐いているのだろうか。本当は礼二郎さまに無理やり押さえ込まれて助けが必要だったのかもしれない。
でも――。
いま再び戻ったら、確実に殺される。
二人は婚約もした恋人同士なのだ。数ヵ月後には結婚もする。あえて口にはしないが、二人が身体を交わすのは今回が初めてではないことも知っていた。
つまり……。
何もなかったことにするのが一番……なのだ。
と、分かっているのだけれど。
「あああ、美由紀さん、ごめんなさい」
南無南無南無。
両手を合わせて謝った。
こんなに慌ててしまったのは、現場に居合わせたのが初めてだったからというだけで、これから先はこういうことが当たり前のようになっていくのだろう。
せめて、次に会うときは何事もなかったかのように対応しようと心に決める。
足早に去ろうとした頭上から、堪えきれない喘ぎが聞こえてきた。
「ん……っ、あ……ぁっ」
何が行われているのかを知らなければ、街の喧騒に飲みこまれて聞こえないくらいの声だったが。
見上げれば、先ほどのようにカーテンが揺れて、それをつかんでいるのが白く細い手だということに気づいた。
思わずドキリと心臓が高鳴る。
すぐにその細い手首を男の手がつかんで引き寄せ――。
ひょっこりと礼二郎さまの顔が窓からのぞいた。
驚く自分にニヤリと笑って、早く行けとばかりにひらひらと手首を振って消えた。
なんだか脱力してしまった。
「まったく……」
一週間も休みをくれたと喜んでいたけれど、邪魔者がいなくなったと一番喜んでいたのが誰なのかは明白だ。
あまり無体なことをしでかさなければいいけれど。
溜め息をついてきびすを返す。
晴れた空からポツポツと雨が降ってきた。
狐の嫁入り――。
大路で遊んでいた子供たちがわあと叫んで楽しそうに散り、まるで天から祝福されているかのように世界はキラキラと輝いていた。
了
【水影的10の雨模様／08】
2010.07.15