榎木津×美由紀 ※恋人設定
『星よりも』
「暑い」
「暑いですね」
「暑い」
「本当、暑いです」
今日だけで、探偵とこの会話を何度繰り返したのだろう。
初夏の日差しと蒸し暑い気候の中で、風があることだけが救いだ。
なるべく建物の影に入るように歩いてはいるけれど、まぶしくて目はチカチカするし、顔や首筋に直射日光が当たる。少し前を歩く探偵がなるべく自分の身体で影を作ってくれるように配慮してくれているのわかって、嬉しいけどなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
帽子か日傘を持って出ればよかったと後悔したがもう遅い。また日焼けしそうだなあ、と気鬱になりながら視線を向けた先で、風に揺れる鯨幕が目に入ってきた。
白と黒の縞。その前を黒い列が続き、葬式が行われている家の中からは木魚と鐘の音、淡々とした坊主の読経が聞こえてくる。
誰か亡くなったのかな、とぼんやりと思っていたら、まだ若いのにねえ、という声が聞こえて足が止まった。
――結婚したばかりじゃないか。
――もともと、長くないのは分かっていたみたいだよ。
――綺麗な子だったけど、美人薄命ってことかねえ。
――残された旦那さんがかわいそうだ。気落ちしちまってよう。
「どうした」
急に立ち止まった私に気づいた探偵が引き返してきた。
「女学生君？」
なんでもないです――とは云えなかった。
神保町の探偵事務所から図書館に向かう道。今までにも何度か通ったことのある場所だ。
どきどきと心臓が高鳴っている。
葬式が行われている家の住人を――。
おそらく亡くなったその人を、私は――。
「知っているのか」
探偵が云った。
私は喪服の人波を見つめながらつぶやいた。
「風で飛ばされた帽子を拾ってもらったことがあって……」
首筋で切りそろえられた黒髪、肌は抜けるように白く、優しい笑顔の女性だった。淡い色彩の和装にショールを羽織っていた姿は儚げで、直接言葉を交わしたのは一度きりだが、それからはここを通り、顔を合わせると互いに笑顔で会釈するようになった。今日のような天気のときに差している白いレースの日傘がとても素敵で、旦那さんが一緒にいるときも、ふたりで挨拶をしてくれたりしたのに――。
亡くなった？
なぜ。
長くないことは分かっていたということは、原因は病なのか。――確かにあまり健康そうには見えなかったけれど。
寄るかい、と云う探偵に、私は首を横に振った。制服ならともかく、今はサーモンピンクのフレアワンピースに白い靴、とまるっきり場違いな服装だ。焼香をするだけなら今日じゃなくてもいい。
何より、あの優しそうな夫人を失って悲しむ旦那さんの姿を見たくなかったのかもしれない。
再び歩き始めたが、私は知らずに探偵の袖をつかんでいて。
そのときに口にした言葉も、無意識だった。
「探偵さんは、もし私が突然死んだら……」
どうします？
思わず口にした私の言葉に、探偵は足を止めた。
「君が死ぬ？」
は、と意識が戻って、私は慌てた。
「あ、あの、何でもないです」
「何でもなくはないだろう」
「……はい」
突き放すような言葉に私は気落ちしたが、どうせなら聞いてみよう、とまっすぐに探偵を見上げた。
「もし、私が突然亡くなったら、どうしますか」
いつもならそんな仮定に意味はない、と鼻で笑うような人が、表情を変えることなく、私の言葉を真摯に受け止めている。
探偵は首をかしげた。
「事故？ 病気？」
「どちらでもいいです」
私が突然死んだら、探偵はどうするのだろう。
それは、ふと浮かんだ疑問。
泣いたりはしないだろうなと思う。
何で死んだ、と怒るかもしれない。
戦争でも、それ以外でも、たくさんの死を目にしてきた人だ。私もその中の一人になるだけで、線香のひとつでもして後は忘れるのかもしれない。それでもいいけど、たまには思い出してくれるだろうか。
「何でそんなことを聞くの」
静かに問う探偵の言葉に私は微笑んだ。
「なんとなく」
そう。
なんとなく、聞きたくなった。
探偵は何かを考える面持ちで、伸ばしてきた指でそっと私の横髪を払った。あごをつかまれて、顔色を確かめられる。
「持病があるとか、今、病気で死ぬわけではないよな」
「大丈夫。健康優良児です」
探偵は少しだけホッとしたような顔をする。
どんな終わりであっても、最期は探偵と会えるといいな、と思う。探偵に会えたら嬉しくて、痛くても苦しくても悲しくても辛くても、きっと笑ってしまうに違いない。
私は何も答えない探偵に微笑んだ。
「すみません。今のは忘れてください」
私は探偵から手を離して歩き出す。その背に、美由紀、と名前で呼ばれた。
「君が亡くなったら」
振り返った私に、探偵はまっすぐな言葉を向けてきた。
はっきりとした言葉で、
「君が亡くなったら、探す」
と云った。
「――」
私は瞬いた。
「探す？」
「そう、探す」
探偵は柔らかく笑んで、ゆっくりと歩いてきた。
「君を探す」
「探偵だから？」
「君が必要だから」
探偵は、私の前に立った。太陽の光が遮断され、彼の影に私が入ってしまうほど近い。
「探して、探しまくって、君を見つける」
「私は死んでいるんですよ。亡くなっているのに？」
「生まれ変わった君を見つける」
「星の数よりも多くの人がいるのに？」
「見つける」
探偵は、両手で私の頬を包んだ。
「今ここにいる君も、ちゃんと見つけただろう？」
まるで、前世でも会っていたかのように彼は云う。
私は、頬を包む大きな手に自分のそれを重ねた。
「……生まれ変わらずに、ずっと探偵さんのそばにいるかも」
「ははは！」
快活に探偵は笑った。
「それはいい。じゃあ、僕が死ぬまで待っていなさい」
探偵の口元は笑っているけど、冗談で云っているのではないのが分かった。
今は彼に追いつこうと必死の私が、探偵を待つの？ ――ああ、それはいいな、と探偵と同じことを思ったら、彼のように声を出して笑いたくなった。くすくすと笑っていたら、探偵が私の額に唇を落とした。
優しい優しい口付け。
こうして触れられることが嬉しくて、楽しくて、また笑ってしまう。
探偵が私の頭をくしゃりと撫でて、目を細めて笑った。
「行こう」
差し出された大きな手。
「はい」
嬉しくて微笑むと、彼の手を取り、隣に寄り添った。
青い東京の空に蝉が鳴く。
暑い夏が始まろうとしていた。
了
【古風気味な百の題目／058】
2010.08.30