榎木津×美由紀
『水蜜桃』
「あれ？」
7月の半ば。
調査を終えて事務所に帰ってきた益田は、土曜日の放課後に訪れる少女の姿がないことに瞬いた。
「和寅さん、美由紀ちゃんは来てないの？」
学校はもう夏休みだっただろうか。
台所から姿を見せた寅吉は、益田と自分のためのお茶をテーブルに置いて苦笑した。
「美由紀さんが来ていなかったら、今頃先生が大騒ぎだよう」
「ああ」
なんだ、来ていたのか。
「散歩ですか」
「いや、昼寝」
「ひるね？」
きょとんと瞬き、益田は事務所の隣にある部屋へと視線を向けた。探偵の寝室でもあるそこの扉は開いたまま、程よい風が流れている。
「寝てるの？」
「先生と一緒にね」
「ええ！？」
な、なにそんなに落ち着いているんですか和寅さん、と益田は慌てて立ち上がった。
ずず、とお茶をすすって、寅吉は呆れたような視線を探偵助手に向けた。
「何か問題でも？」
「問題！？ 大ありですよ！ 何かあったらどうするんですか」
「何かって何だね。何かあるわけないだろう」
「で、でも」
「こんないい天気じゃ、眠たくもなる」
「そういう問題じゃありませんって！ いい年をした男女がですよ、ひとつのベッドで眠るとか……ああああ、考えるだけで恐ろしい！」
「益田君、静かにしないと美由紀さんが起きるぞ」
じとりとにらまれて、益田は慌てて口をつぐんだ。
美由紀の眠りを妨げて、何が一番恐ろしいのかといえば、探偵の怒りを買うことだ。
「その……、榎木津さんが無理やり？」
「ただの昼寝だよ。扉だって開いているだろう」
「無理やりなのは否定しないんスね……」
益田は途方にくれたように立ち尽くす。
事務所に来たばかりの少女の手首をつかんで、「昼寝だ！」とか「ねむねむだっ！」と叫ぶ探偵の姿が目に浮かぶようだった。
確かに、と思う。夏には珍しく昼寝には最適な気候、気温と湿度、風ではあったけれど。
ここへ来る間も今日は昼寝日和だなあ、とは思ったけれど！
益田はそろりと足を動かし、一応確認、と寝室の入り口から中をのぞいてみた。
ドキドキと心臓が高鳴るのは、万が一――の場合があるからだ。
探す姿はすぐに見つかった。
広い部屋の奥にある大きなベッドの中央で、大の字になってぐうぐう寝ている探偵と、その奥で、細い身体が横になっていた。少女は腹の上で手を組み、行儀よく寝ている。
開いた窓から入ってくるそよ風が少女の前髪をさらさらと揺らし、二人とも気持ちよさそうに眠っていた。
本当に、ただ寝ている――だけだ。
おとなしく戻ってきた益田を、寅吉が声を出さずに笑った。
「だから云っただろう、何もないって」
「そうですけど」
はあ、と大きなため息。
益田は、ソファーの背にもたれて首をのけぞると、窓の外に広がる青い空を見上げた。
平和だ。
「何の夢を見ているのかなあ」
きっと夢の中でもデートしているに違いない。
起こしてやろうか、と意地悪く思う。もちろん、思うだけだが。
「益田君、美味い桃があるよ。食べるかい？」
「いただきます」
寅吉が台所に消えると、しばらくしていい匂いが漂ってきた。
寝室にもその匂いが届くだろうか。
益田は笑った。
甘い甘い匂いに包まれて。
二人はどんな夢を見るのだろう――。
了
【古風気味な百の題目／090】
2010.08.30