あれは、とにかく自分のミスだった、とリンは思う。
依頼は古い洋館の怪奇現象調査。
少女の霊が出る、と噂が立ち、そこを建てなおそうと業者が入ると必ず不可思議なことが起こる、と依頼人の老婦人は言った。
洋館――明治に作られたそれは、今まで九人の人物に受け継がれている。だが、実際に使用していたのは六人までで、あとは書類上の家主に過ぎなかった。
少女の霊が出ると噂されるようになったのは七人目の時。ちょうど第二次世界大戦末期。玉音放送をその洋館で聞いたというから間違いない。
館の持ち主を日崎という。依頼人の父親は五人兄弟で、その館は祖父、長男、次男、そして三男である依頼人の父へと受け継がれている。霊が出るようになったのは次男のときだが、長男に一人娘がいた。
名を日崎祥子。
明治から続くお嬢様学校に通い、嫁ぐ先も決まっていた。
だが、その娘が死ぬ。
火事に巻き込まれたのだ、と依頼人は言った。
服装と年齢から少女の霊はその娘かと思われた。しかし、依頼人は首を横に振る。
「一人娘……私の従姉妹にあたりますが、祥子さんが亡くなって、伯父は一人の少女を養女にいたしました」
兄弟はみな反対したのだという。遺産相続といった問題ではなく、伯父――日崎勝彦が、その少女を本当の娘、祥子として認識していたからだ。
「伯父には、愛する妻の形見である祥子さんを失ったのが信じられなかったのでしょう。みちさんを……祥子と呼び、祥子さんが辿るべき道を進ませたのです」
「嫁に出した」
ナルの言葉に老婦人は頷く。
「ですが、嫁ぎ先では嫁は日崎祥子ではなく、日崎みちです。それも、ご両親のいない戦争孤児。父親は幼いときに死に別れ、母親も戦争のさなかに彼女をかばって被弾したそうです」
嫁いだ先で、みちは夫人ではなく、下働きと同じ扱いを受けたのだという。だが、みちは何も言わずに、幸せに暮していると養父に手紙を――それは代筆であったけれども――出していたのだという。しかし、半年もしないうちにみちは突然亡くなった。
「病気……」
「そう聞いています」
「……」
ナルは考え込み、手元の資料をめくる。
「みちさんに――少女の霊と会いましたか」
「はい」
「日崎みちだった」
「いいえ。わかりません」
「違う？」
「祥子さんではありませんでした」
なるほど、とナルは言う。
祥子ではないが、みちであるとは断言できない――。覚えていないのか、会った事がないのかは分からないが。みちではないと断言しないところを見ると、記憶が不確かなのだろう。
資料の最後に、日崎勝彦とみちの絵姿をカラーコピーしたものがある。安原修が用意したものだが――。
ナルはその写真を老婦人に見せた。それを覗き込み、依頼人はナルの顔を見る。
「ええ、……みちさんです。……みちさんでした。やはり……みちさんなのですね……」
そして、チラリとリンを見上げたのだった。そして、微笑む。視線は再びナルの資料に貼られた写真へと移った。
「似ていますでしょう？」
依頼人が微笑する。再び、リンをチラリと見た。
リンは不機嫌さを隠そうともせず、老婦人を不快げに睨む。
ナルの手元には、顔の右半分にあるやけどを隠すために、前髪を長く伸ばした長身の男と、おかっぱの少女が幸せそうに笑っている写真があった。少女は実際の年齢よりも幼く見える。
問題は――。
日崎勝彦が、リンとよく似た体型と顔立ちだということ。リン自身は分からないが、ナルも「似ているな」と言うからきっとそうなのだろう、と思う。
依頼人が帰り、機材を洋館の各部屋に設置してベースに戻った二人だが、とたんにひとつの部屋が急激に温度が下がり始めた。
それも、ベースがある部屋だ。
肌寒さが急激に伝わってきて、モニターを見るよりもそれは明らかだった。
「くそっ」
ナルが身構える。まさかこんなに早く出てくるとは思わなかったのだ。
霊とは最初は警戒するもの。いかにも怪しい人物の登場に、警戒するどころか真っ先に挨拶に来ることは珍しい。
「おとうさま」
そう、小さな声がした。
「おとうさま。おとうさま。おとうさま」
声は、リンの耳元で。
「おとうさま」
「リン！！」
ナルが叫び、リンも身体を浮かせた。その身体に、少女は腕を回していた。
そう。写真の二人がそうしていたように、勝彦の背後にみちが立ち、軽く首に腕を回して。
「おとうさま。ただいま帰りました」
「リン！」
ナルの声は、耳に入らなかった。
身体が動かない。
「祥子はやはり、おとうさまのところにいたいわ」
「リン！！」
「ねえ……。おとうさまも喜んでくれるでしょう……？」
「リン！」
ナルの身体も動かない。
「ねえ……。怒っていらっしゃるの……？」
ねえ……。
突然、がく、と身体の力が抜けた。ナルも前に勢いづいて倒れる。
身体の金縛りはとけ、少女も消えた――――。
ナルが息を吐いた。
「やはり、みちで間違いないようだな……。リン、大丈夫か」
「はい」
はい、と。そう言ったつもりだった。だが、言葉がつむげない。
「リン？」
ナルが眉をひそめる。
リンは言葉を失っていた。
だが、それより三日。以降、その館において異常は何ひとつも起きなかったのだ。
いったん調査は打ち切られ、東京に戻ってくることになった。
だが、リンは一緒にその少女の霊も連れてきてしまったのだ。
それに気づいたのは、事務所に来た一人の少女だった。
「リンさん……憑かれていますわよ」
事務所に入ってきてそうそう、目を丸くして言ったのは、原真砂子。優秀な霊媒師だ。
「年は１５歳前後」
溜め息をついたのは、ナル。
「原さんと同じ髪型」
「ナル……。ええ。はい、そうですわ」
ご存知でしたの？ という目で真砂子が黒衣の少年を見上げる。
ナルが放つ特大の溜め息。反射的にリンは謝っていた。
「すみません……あ」
スラ、と出た言葉だったが、実は声を出すのは４日ぶりだった。今までは息としてしか言葉を話すことが出来なかったのだ。
「その方は……誰ですの……？」
リンは沈黙し、ナルが溜め息をついた。
それをこれから話そうと思っていた、と口にして。
なぜ麻衣の話になったのか、とリンは思う。
リンに憑いた日崎みちの霊は、真砂子が言うには怨みなどの悪意はまったくないという。だが、翌日にはリンやナルの目にもその姿を見せるようになり、遊びに来た綾子に悪感情を持ち始めた。綾子に、というより、リンに近づく女性に、だろうか。リンに近づく女性に悋気を見せ、近づくなと叫び、物を飛ばす始末。
だが、出現は気まぐれで、リンの周囲をうろうろと飛び回るように現れたり、まったく姿を見せなかったり。
土曜日の午後、真砂子が来たときも、みちの霊は姿を隠していた。今日、綾子が滝川法生を連れてくることになっている。
一足早く来たのは真砂子。
そして――そう、真砂子が写真を取り出したのだ。
今回の依頼の前の事件で知り合ったカメラマンがそのときに撮った写真――真砂子のものが大半で送ってきたらしいのだが――その中に一枚だけリンと麻衣が写っているものがあったから、と。
「この前、渡そうと思ったんですけれど、渡しそびれてしまって」
リンの手に渡した真砂子は、声をひそめる。
「麻衣に渡すより、リンさんにお渡しするほうがいいかと思って……」
差し出された封筒の中身を怪訝な顔で開いたリンの頬が朱に染まる。
「原さん」
「分かってますわ」
真砂子は微笑をもらす。やはり声をひそめたままで。
「麻衣には黙っています」
二人の内緒話にナルが片眉を上げたが、何も言わずに再び手元の資料に目を走らせた。
リンは溜め息をついて、それをもう一度見てから封筒にしまう。
そこに写っていたのは笑顔の麻衣。
そして、その奥で、麻衣を見ている自分がいた――。
もちろん、パソコンを使えばいくらでも修正はできる。
「そういえば、麻衣はどうしましたの？」
「修学旅行です」
「ああ……」
真砂子が通う学校も来週に修学旅行がある。
「なんだか麻衣がいないと不思議と寂しいですわね」
「そうですね」
「……」
思わず正直に答えてしまい、リンは慌てて口を閉じる。驚いたように目を見開いて自分を見上げてくる少女に咳払いをした。
「……事務所が暗い、という意味です」
「ええ」
真砂子はにっこりと笑った。
「わかっていますわ。わたくしもそう思いますもの」
リンはホッとしたような溜め息をつく。真砂子から離れ、写真を机の引き出しに入れた。
麻衣は今日帰ってくるはずだが、今日明日とナルが休みを入れたので、麻衣の顔を見るのは月曜になるだろう。
真砂子はナルから今回の事件についての資料を渡されている。それを横目で見て、リンは躊躇ったが、もう一度、封筒を開いた。
一枚の写真。
背景の緑が輝く中で、明るく元気に笑っている少女の姿が映っていた。
光の下で。
たとえ闇の中であっても真っ直ぐな心をもつ者。
そして、それを見つめる自分――。眩しいような、そして、見たことのない笑みで少女を見ていた。
自分はこんな目で彼女を見ているのか、とリンは思う。
――リンさんも笑えばいいのに。あたしにいつも笑ってくれるみたいに――。
この少女は気づいていない。
リンは写真の麻衣に指を走らせる。
自分が笑うことが出来るのは、彼女に対してだけだということを。
ナルやまどか、親族に向ける笑みとは違ったものであるということを。
その笑みが、麻衣だけに向けられるものであることを。
――ねえ「谷山さん」じゃなくて、ナルやぼーさんみたいに「麻衣」でいいよ？
麻衣、と呼べない自分に、「リンさんらしい」と笑った少女。
「……麻衣」
周囲には聞こえない声で囁く。
そのときだった――彼女が再び現れたのは。
リンの顔の横に、黒髪が揺れた。
ふわり、と肩に頭が乗る。その確かな感触。
少女の顔が揺れた。首をかしげたのだ。
「だれ？」
――と。
それは誰？ と、日崎みちは問うた。
「リンさん！」
真砂子が叫んだ。
「それは誰！？ ねえ！ 誰！？」
みちの頭が――頭だけが写真に顔を近づけた。
「マイって、誰！ ねえ、おとうさま――！」
ねえ、と顔が後ろを向く。目が、漆黒の目が、大きく見開かれ、黒目がゆっくりと周囲を見渡した。
「おまえなの……？」
目を止めたのは、ナルがかばうように立つ、真砂子。
「おまえがそうなの！？」
そうなの？ ねえ――？ そうなの？ おまえなの？
「おまえが――！！」
違う！ とリンが叫んだ。
顔が真砂子に向かって飛ぶ。――いや、空間を割って、真砂子の目前に現れた。
「――っ！ ひっ！」
「おまえがマイか――」
「やめろーー！！」
「きゃあああああ！！！！！」
悲鳴が響き――そして、真砂子が叫んだ。
「わたくしが好きなのは彼ではありませんわ！ ナルですもの！！」
※
日崎みちはジョンによって祓われた。
――とりあえず。
「逃げはっただけやと思うです」
「お屋敷に？」
「はい」
ジョンは頷く。
「本体――身体が屋敷にあらはって。こっちに来てはったのは頭だけ――」
「なら、やることはひとつだな」
滝川がニヤリと笑う。
ジョンも頷いた。二人の視線が――その場にいた者たちの視線がナルに向かった。
「麻衣はダメだ」
「なんで！」
「自分が一番危険だとわかっていて言っているのか？」
「分かっているよ！ でも――！」
ナルは溜め息をつく。
「囮は必要か」
麻衣の瞳が輝いた。
「うん！ 必要だと思う！」
「ナル！」
リンと滝川が叫ぶ。ナルは怜悧な表情を変えることなく、目線だけを男たちに向けた。
「正直、一人だけ離れている方が危険だと判断してのことだが？」
「……」
「無理にとは言わない」
「あたし行くからね！！」
麻衣がリンと滝川を睨んだ。綾子が麻衣の頭に手を乗せた。
「そうねえ、一緒にいたほうが安全といえば安全」
それとも、と綾子がにっこりと笑う。男たちに向かって――。
「私がここに残って麻衣を守るっているのもありよ？」
それには、ナルとリンをのぞいた男たちが一斉に首を横に振った。
「やった！」
麻衣が笑う。彼女も知っているのだ。自分がどこにいるのが一番安全であるのかを。
「……」
リンだけが、不満な表情をあらわに、小さな溜め息をついた。
「谷山さん！」
叫んだのはリン。
麻衣に向かって倒れる木材。
その声に振り返ったナルや滝川らが反応するよりも早く、リンは麻衣の上に身を覆う。
悲鳴が響き――、声が交錯した。
屋敷の中にいるであろう少女の霊によってもたらされた――。
悪意の行為。
麻衣は床に倒された衝撃で一瞬呼吸が出来なくなる。だから、耳元で囁かれた言葉に麻衣は反応することが出来なかった。
「どこか、怪我は――」
リンの声だった。
麻衣は痛みに目を潤ませながらも、首を横に振った。頭を強く打っていたけれど。
何が起こったのか、よくわからない。
「そう――よかった……」
リンが安堵に笑う。麻衣がめったに目にすることのない――だが、時々見せる笑み。麻衣は、この笑みが好きだ、と思う。
――なんで、リンさんが……。
ぼやけていた視界がはっきりして、麻衣はリンの肩越しに家の支柱となるような太い柱が何本も覆い被さっているのを知る。
「――リンさん！？」
――やだ！！
「リンさん！！？」
リンの額から赤いものが流れて来る。だが、それを見ている麻衣の視線もぼやけ始めた。
ズキ、とこめかみが痛む。
リンたちの背後で滝川らが材木を取り除いている。
「リン！」
滝川がリンの肩を抱いた。
「ぼーさん……っ！ リンさんが……！」
「分かってる。――くそっ」
麻衣の一番近くにいたのは滝川だった。だが、実際に麻衣向かって一斉に倒れてきた材木から彼女を守ったのは、一番遠くにいたはずの男で。
「リン、しっかりしろ！」
「麻衣、大丈夫！？」
真砂子と綾子が麻衣の腕を引いて抱き寄せた。
リンの意識はない。額から流れる血だけが――赤い線だけが麻衣の視界を埋めていく。
真砂子の問いも、麻衣の耳には入ってこなかった。
「リンさん……」
涙が出た。
――谷山さん！
真剣な顔をしていた。
とっさに引かれた腕。
覆い被さってきた、大きな身体。
何が起こったのか。
「リンさん……」
みんなの動きがすごくゆっくりに感じた。
遠くから、救急車のサイレンが響き、近づいてくる。
「麻衣……？」
真砂子が腕の中の麻衣の変化に気づく。
「麻衣！？」
「どうし――麻衣っ」
綾子の声がした。
「……何？」
麻衣はそう言ったつもりだった。だが、声にならない。
すごく……眠い。
ズキズキズキズキ……。
綾子が、真砂子の着物の袖が赤く染まっているのに気づいた。
麻衣の後頭部から血が流れている。
ズキズキズキズキ……。
「麻衣！」
すごく、眠いの――。
なんでだろね？
そして、麻衣は夢を見る。
男がいた。
細身で背は高く、伸びた鼻筋、切れ長の眉と目、だがその片方は長い前髪で覆われていた。その下には、醜い火傷の痕があった。
着物がとてもよく似合う。だが、着物を脱げば、背や足にもひどい火傷の痕が残っていた。その火傷の痕に毎日薬を塗るのが彼女の役目だった。
いつもは厳しい表情をしているのに、彼女を見るときだけはとても優しい笑みを浮かべてくれる。
「祥子」
男の口から、自分の娘の名が紡がれた。大切な一人娘の名。
彼女は 「はい」 と答えた。
嬉しそうに父親に駆け寄り、その腕の中に飛び込んだ。
座っている男の腕の中に。
日崎みちである少女は。
養父である男に恋をしていた――。
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