榎木津×美由紀
『笑わなきゃ』
「わはははは！」
「わあ！」
私が事務所の扉を開けるなり、探偵の笑い声が響いた。私は思わず叫んでしまう。
探偵は事務所の最奥にある大きな机の前に立っていた。
何事かと私が探偵を見つめると、彼は満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「来たな女学生君！」
探偵は「わあ」とか「おう」とかいう叫びが好きなのだという。
本当に子供みたいだ。
私はくすりと笑った。
「探偵さん、何か楽しいことでもあったんですか」
春休みで実家に帰っていたが、昨日、益田さんから今日遊びに来ないかと電話があったのだ。桜の花見でもするのだろうか――と、私は何の疑問も持たずに電車に乗ってきたのだが。
応接のソファーに座る益田さんは、私に手を振ってからおいでおいでをする。すっかり寛いでいて、私を待ってから出かける――というような様子ではない。
今日はどうしたんですか、と問おうとしたときだった。
「よく聞きたまえ」
と探偵が胸を張った。そして、
「僕は女学生君が大っ嫌いだ！！」
元気に叫んだのだった。
私は瞬くのも忘れて、探偵を見た。
「……」
ただ――驚いて。
にこにこと楽しそうに笑う探偵を見つめた。
「――」
何か云おうとしたのだけれど、言葉にならず、探偵を真っ直ぐに見ることしか出来なかった。
え――？
と、問う事もできず。
は？
また突然何を、と呆れることもできず。
――僕は女学生君が大っ嫌いだ！！
耳に残る探偵の声。
脳裏にその言葉が何度も響く。
静まり返った所内。益田さんが驚いたように探偵を見ている。探偵と――私を。
急激に気温が下がったような気がした。
心臓が止ったんじゃないかと思うくらいに胸が痛んだ。まるで手で絞られているよう。
呼吸をすることも忘れていた。
いや、呼吸の仕方をも忘れていたのだ。どうやって息を吸えばいいのか――そんなことも分からない。
嫌い？
探偵は私の反応を待っている。
おそらく私はきょとんとした表情になっていたのだと思う。
なんでだろう――と、普通に思った。
何で嫌いなんだろう。私が探偵の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。春休みだからと、探偵に会いにこなかったから？ だから嫌い――なのだろうか。探偵が私を嫌いという理由を考えてみるが、まったく分からない。
私は困って、仁王立ちの探偵を見つめた。
私の反応がないことが不満だったのか、探偵は片眉を上げ、だから――と云った。
「だから、僕は女学生君がだいだいだいだい、だいっ嫌いだ！ と云っているのだ！」
聞こえたかい？ というかのように探偵は私を見つめる。
そんなに主張しなくてもいいじゃないか。
そんなに笑顔で云わなくても。
「……はい」
はい、とは云ったが、言葉にはなっていなかったと思う。
一歩――、足が下がった。
膝が、震えている。
どうしよう――。
自分が何をすればいいのか、どうすればいいのか分からない。
どういう表情をすればいいのか。
動悸が早まって、頭の中にまで響いてくる。
そうか、嫌われているのか。
好意をもたれていると思っていたのはすべて勘違いだったのか。
――そう思ったら、顔が紅潮した。
恥ずかしい――。
勘違いしていた自分がすごく恥ずかしくて、ここから逃げ出したくなってしまう。
息が吸えない。
胸が締め付けられるように痛い。
――僕は女学生君が大っ嫌いだ！！
だったら、なぜこんなところに呼ぶんだ。
それを伝えるために？
すぐにでも帰るべきなのに、いま、一歩でも足を踏み出したら、よろけて転んでしまうに違いない。その無様な格好に探偵はまた笑うのか――。
分からない。
なにもかも。
混乱する――。
「榎木津さん！」
沈黙を破るように、益田さんの声が響いた。
「なに云ってるんスか、もう！」
「そうですよ！」
和寅さんまでが台所から出てきてうろたえている。
立ち上がった益田さんが、頭を抱えた。
「確かにいつも思っていることの反対のことを云えば良いんじゃないかって云ったのは僕ですけどね！ それは駄目ですよ！」
「何が駄目なんだ、バカオロカ」
「ああもう！」
益田さんは私に向かって振り返ると、顔の前で両手を振った。
「美由紀ちゃん、違う！ 違う違う！ 嘘だから！」
ひどく慌てている。
「榎木津さんが云ったのは嘘！ 今日は嘘をついても良い日なんだよ。四月一日。エイプリルフール！ 知ってる？ 知らない？ あのね、外国ではそういう日があるってラジオで云って――」
ばこん、と探偵が雑誌で益田さんの頭を叩いた。
「この馬鹿者！！ 僕が嘘だと云う前にネタバレするとは何事だっ！！」
バカ、オロカ、カマ、ボケ、マヌケ、と探偵は云い立てる。その視線は、私の方へと向いた。不満そうに眉を上げている。
「女学生君もどうして早く『本当ですか？』って聞かないんだ！ 嘘だって云えないじゃないか！」
「……嘘」
私はつぶやいた。
嘘をついてもいい日……？
探偵は、私が大嫌い――。
つまり、大好き――ということなのだろうか。
私は――。
「……」
私は。
「ごめんなさい」
と謝った。
身体中の力が抜けて、思わず笑った。
「びっくりしました……」
私は笑う。
「だって――」
いつも、好きだと云ってくれることはあっても、それを嘘だと思ったことなどなかったから。
いつでも真っ直ぐに、正直に、思ったことを口にする探偵の言葉が――私に向けられる笑みがすべて嘘だったと――。
そう思うことなど一度もなかったから。
だから、探偵が私を嫌いというのなら――。
「本当なのかと……」
私は笑う。
私は笑う。
笑う。
間違いでよかったと嬉しく思うはずなのに――ホッとするはずなのに、胸はますます痛んでいく。
「思って……」
探偵が見ている。
私は無理やり笑みを作った。
手が震えた。
本当に怖かったのだ。
探偵が自分を好きかも知れないなどと、勘違いしていた自分がひどく恥ずかしくて。
何を信じればいいのかわからなくなって――。
「女学生君」
探偵が急に真剣な顔で近づいてくる。
私は――。
一歩下がって。
探偵が近づいてくるのと同じようにどんどん下がって、とうとう壁に背をつけて止まった。
「あの――」
私は笑った。
「女学生君」
「本当に、驚いて」
探偵が困ったような顔をしている。
ほら、困らせてしまう。だから、笑わなくちゃ……。
私は笑う。でも、無理やり作った笑みはすぐに崩れた。
「あの」
私は慌てて顔を下げると、目を瞑る。前髪で顔が隠れてくれるように願った。
「そんな日があったなんて知らなくて」
嘘でよかったです、と。
本当によかったです――と。
笑顔で云わなくては――と思っているのに。
「女学生君」
探偵が私の前に立って、私の顔に手を伸ばした。
「――っ」
私は反射的にその手から避けるように頭を引いた。身を引いて――。
私は混乱する。
「ぁ……」
なんでそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
今まで探偵の手が触れてくることを嫌がることなど一度もなかったのに。
ただ――。
ただ、怖くて。
怖くて。
どうして？
どうして怖いと思うのだろう――。
白くて綺麗な指。
私よりもずっと大きくて、力強い指。
いつも頭を撫でてくれる、暖かい手。
不安なときはいつも私の手を握ってくれる優しい手。
探偵の手は、私に拒否された位置で止まっている。
「ご――ごめんなさい」
私は誤魔化すように笑いながら謝った。
「その――、びっくりして――」
探偵の顔を見ることが出来ない。
ただ、目の前にある探偵の手と――靴を交互に見て。
「あの――」
唇が震えた。
頬が。
笑わなきゃ。
笑わなきゃ――。
笑わなきゃ――――。
「あの――」
私は右手の甲を額に当てる。
泣いたらだめだ。探偵が心配する。でも、視界がどんどん歪んできて、何かを口にしなくてはと思うのに言葉にならなかった。
声を出そうとしたら、きっと嗚咽しか出ない。
どうしよう――どうしたらいいんだろう。
「女学生君」
探偵の声が優しく響いた。
探偵は壁に手を着いて私を隠すように囲った。
「和寅！」
私の頭上で探偵が叫んだ。
「は！ はい！？」
ずっと見守っていたのだろう、和寅さんが堰が切れたように慌てて返事をした。
「なんですか」
「鍋が食べたい」
「……はへ？」
「はへじゃない！ 鍋だっ！ 今夜は鍋だ！ 石狩鍋が良い！」
「――は、はあ！？ 鍋ぇ！？」
和寅さんの突拍子もない声が聞こえてくる。
「鍋ですかい？ 今の季節にですか」
「すぐに買って来いよ。マスヤマも一緒に行け！」
「は！？」
益田さんもまた２オクターブ高い声で叫び、そしてすぐにはっきりとした声でハイッ！ と叫んだ。
「和寅さん、ほら、鍋の材料を買いに行くよっ！」
「ええ？」
「ほら！ 早くっ」
「あ――ああ、そ、そうっスね！」
探偵の背後でバタバタと二人が忙しく動く音がしたかと思うと、十秒も経たないうちに私の隣で扉が開き、二人は飛び出していった。まるで事件が発生して飛び出していく刑事のようだった。
慌しく階段を駆け下りていく音が響き、カランカランと扉についている鐘が煩い音を立てた。
鐘の音が静まっても、その余韻が耳に残る。
やがて事務所は早朝の教室のように静かになって、私には自分の心臓の音しか聞こえなくなった。
「嘘だよ」
嘘だ、と探偵が静かに囁いた。
「ごめん」
探偵が私の頭上に口づけたのがわかった。髪に唇をつけたまま、ごめん、と探偵は囁く。――まるで祈るように。
「僕はすぐに調子に乗ってしまうから、大切なことに気づかないんだ。云っていいことと悪いことの区別がつかなくなってしまう」
懺悔――なのか。
ちがう……。
私は、そんなふうに謝ってほしくなくて、よけいに悲しくなってしまう。
探偵は思ったことを云っていいのだ。だって、それが探偵なのだから。
私は首を横に振った。
悪いのは私だ。
冗談を冗談と笑えない私が悪い。
「探偵さんが嫌いです」
私も嘘をつく。
びく、と探偵の身体が動いた。
「探偵さんが嫌いです」
私は顔を上げて、探偵を見上げた。
「探偵さんが、嫌い……」
探偵はひどく傷ついた表情をしている。
「女学生君」
ひどい――そんな表情をするのは反則だ。
「嫌い」
きらい、と続けようとした言葉は、嗚咽に変わってしまう。
涙がボロボロと流れて止まらない。
嗚咽が止まらない。
歪む視界に眩暈がしてくる。
「女学生君」
探偵の手が伸びてきた。
私はとっさに逃げるように顔を引いて、探偵の身体を押した。
「――っ」
涙が止まらなくて。
嗚咽が止まらなくて。
私は叫んでいた。
「嫌い――っ」
嫌いだ。
探偵なんか大嫌いだ。
「嫌い――嫌い！ 嫌い！！」
好き。
好き。
大好き。
どうしようもないくらい探偵が好きだと、締め付けるように痛む心が叫ぶ。
「なんで……っ」
――僕は女学生君が大っ嫌いだ！！
あんなことを云うの。
あんなことを云ったの。
私は言葉にならなくて、探偵の胸を叩いた。
探偵を嫌いだと、思ってもいないことを云う自分がひどく嫌だった。
云わせる探偵をひどいと思う。
こんなに胸が痛くなるのに。
云われたときよりも、云う方が胸が痛い。
探偵の長い腕はあっという間に私の身体を引き寄せて、強く抱き寄せられた。それなのに、いつもはホッとするその場所が、ただ怖かった。身をよじろうとするが、探偵はそれを許さない。
「僕は好きだ」
耳元で囁かれた。私は嘘だ、と云う。
「君が僕を嫌いでも、僕は好きだ」
――女学生君！
脳裏に響く探偵の声。
あの暖かい笑みも、楽しそうな笑みも。
うるさいくらいの笑い声も。
私を招く手も、頭を撫でてくれる手も、差し伸べてくる手も。
好きだと云ってくれる、その心も。
今まで私にかけてくれた言葉のすべては本当だったのだろうか？
なんで、今更そんなふうに思わなくてはいけないのだろう。
初めて出会ったとき、僕は常に必ず正しい！ 信じなさい、と云ったのは探偵だった。それから、私は本当に信じていたのに。
私にとって、彼は絶対だったのに。
なんで、疑わせるのだろう。
「……ぅ」
涙が溢れた。
「女学生君？」
「嘘だ……」
「嘘じゃない」
「嘘だ…っ」
「頑固だな！」
「信じない」
「――」
「信じない――」
「女――」
「信じない！」
探偵は私の肩をつかんで、身体を離した。
「美由紀君」
「――」
私は、驚いて息を飲んだ。
名前を呼ばれたことよりも、探偵の淡い色の瞳が不安に揺れて、すごく辛そうな表情だったことに目を奪われた。
「本当に？ 本当に僕が嫌いなのか」
探偵は肩から手を離すと、私の前髪をかき上げて、頬を包む。
探偵の長い指が私の涙を拭った。頬を、目元を、何度も何度も拭う。
「僕は、君が好きだ」
「――」
「嘘じゃない」
「…………」
私は――笑おうとしたが失敗した。目をつむると、目の中に残っていた涙がこぼれた。
何が本当で、何が嘘なのか、今の私には判断できない。
それがひどく辛くて胸が痛い。
「女学生君……」
探偵は私をしばらく見ていたが、す――と視線を外し、私の顔から手を離した。
肩から力が抜けたように腕をぶらりと揺らす。
探偵は今まで私が見たこともないような表情で顔をゆがめると、やっぱり今まで聞いたことのないような低い声で「くそッ」と吐き捨てるようにつぶやいた。
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